ここでは、日々思いつくまま、感じるままを気軽に書いて行こうと思います。
今までの僕の人生で心に残っていること、笑えること、少し悲しいことも思い出しながら書いて行くつもりです。
また、僕は、映画やドラマ、絵や小説、音楽など好きなことがいっぱいあるので、それらを観た感想なども書いて行きますね。ぜひ、肩の力を抜いて読んで下さい。
皆さん、海外ドラマはお好きですか？最近は、BSやCS放送などでたくさんの海外ドラマが放映されるようになりましたね。
今日は、以前、NHK-BS2で放映され、現在、再放送されている「名探偵モンク」について話そうと思います。主演は、トニー・シャルーブ。吹き替えは、角野卓造さん。
まずは、ざっとあらすじから。
サンフランシスコ市警の優秀な警官だったエイドリアン・モンクは、新聞記者だった妻を爆弾で殺され、そのショックから、持病のOCDが悪化して職務に耐えられなくなり辞職して引きこもり状態になります。しかし、彼の抜群の捜査能力を惜しんだ上司に勧められ、コンサルタントとして警察の犯罪捜査に協力するようになります。看護師兼助手やカウンセラー、かつての同僚に支えられ、社会復帰を目指して奮闘するモンク。OCDによるおかしな行為で周囲を惑わしながらも、超人的な観察力と記憶力と推理力を駆使して難事件を次々と解決して行く。そんな内容のドラマです。
OCDの僕としては、モンクが黒人と握手した後、いつものように除菌ティッシュで手を拭いて、人種差別主義者と誤解されたり、そんな場面が身につまされるけど、ベクトルが笑いの方向に向いているので、あまり深刻にならずに観られます。
やはり、このドラマのポイントは、主人公のモンクを理解は出来なくても、共感してあげようと言う仲間がいることだと思います。彼の長所を認め、世間から見れば、相当な「困ったちゃん」である彼を、戸惑いながらも温かく見守ってくれる仲間がいるからこそ、彼は活躍できるわけです。とりわけ、子供の頃からずっと変人として扱われ友人もいなかった彼を初めて理解し愛してくれた、亡き妻トゥルーディーと出会えたことが、彼の最大の幸運だと思います。しかし、その彼女を失ってしまったのだから、モンクが受けた心の傷は限りなく深く、彼女についてのエピソードのある回は、切なくて心に染みます。
モンクのOCDに関して言えば、自分のしている行為について、不自然で無意味なことをしているという意識がほとんどないのが、OCDの僕としては、ちょっと首をかしげたくなります。
「他の人はなんでこんなに汚いのに平気なんだろう！」そう思いながら、モンクはせっせと掃除しまくるんだけど、本来なら、「他の人は平気なのに、なぜ自分はこんなかすかな汚れが気になるんだろう？」そう考え悩むのが、OCD患者としては自然じゃないかなあ。でも、そうして、自分の内面に関心が向かって行くと、ドラマの内容が暗くなり、主人公が大真面目でヘンテコなことをして周囲を戸惑わせると言う、笑いの設定が崩れてしまうから、これは仕方ないんでしょうね。「名探偵モンク」は、フィクションなんだし、主人公の病名もはっきりOCDだとは言っていないのですから。
素人の僕が診たところ、モンクの心の設定は、重度のOCDプラス軽度の自閉症にサヴァン症候群と言った感じかなあ。
コメディーとしても、「刑事コロンボ」「CSI科学捜査班」「羊たちの沈黙」などのパロディーがあったりと遊び心満載なので、皆さんも、ぜひ一度御覧になってみてはいかがでしょうか。
ジャック・ニコルソン主演の映画「恋愛小説家」もまた、主人公がOCDの悩みを抱えています。主人公、メルヴィンは、恋愛小説の名手でベストセラー作家なのですが、明らかにOCDで、自分だけの流儀を変えようとしない、人嫌いの変人として描かれています。行きつけのレストランでも、マイ・スプーン、マイ・フォークを使い、勝手な注文を付け、お店や他の客に迷惑のかけっぱなし。しかし、常連客なのでぞんざいに扱う訳にも行かず、困った存在です。
店で働いている顔馴染みのウェイトレス、キャロルだけが、彼の独特のこだわりをどうにか理解し上手く扱っているのですが、ある日、メルヴィンは、とうとう客と大トラブルを起こし出入り禁止になってしまいます。店に行けなくなって、初めて、メルヴィンは、キャロルに淡い愛情を抱いていたことに気付きます。
こう描くと、ありきたりのラブ・ストーリーのように思われるでしょうが、登場するキャラクターがユニークなので飽きさせません。キャロルはもう若くないシングルマザーで喘息の息子を抱えています。メルヴィンの隣に住む、ゲイの絵描きの若者。若者が可愛がっている犬。ちなみに、メルヴィンは、大の動物嫌いという設定です。
出版社の人間は、メルヴィンを、変人だが金を稼いでくれる作家として丁重に、しかし距離を置いて接します。対して、キャロルを始め隣人たちは、彼を一人の「変わり者」として対等に接し衝突し傷つけ合います。その結果、メルヴィンは、自らの孤独に気付き、人と共に、世間と折り合いを付けて生きる努力をしようと決意するのです。
主人公が恋愛小説の名手という設定を生かして、映画の中にも、洒落た台詞がいっぱい出てきます。中でも印象的なのが、キャロルがメルヴィンと大喧嘩した後、彼女が仲直りをしようとして彼に、
「私を気の利いた台詞で口説いてみて」という所。彼は、
「君と喧嘩をしたあの夜から僕は薬を飲み始めた。僕は、いい人間になろうと思ったんだ」そう答えます。さすが、恋愛小説家！
ハッピーエンドで終わるこの映画は、後味の良い、大人のほろ苦いデザートのようです。
OCDに関する本を読むと分かりますが、この病気に苦しんだ有名人として必ず挙げられるのが、「謎の大富豪」ハワード・ヒューズです。
その彼の、華麗かつ悲惨なな生涯を描いた映画が、マーティン・スコセッシ監督、レオナルド・ディカプリオ主演の「アビエイター」です。実を言うと、僕は、この映画を最後まで観ていません。主人公が強迫観念に苛まれる描写が生々しくて、途中でテレビを消してしまいました。だから、この映画についてコメントは出来ません。代わりに、僕が知るハワード・ヒューズについて書いてみようと思います。
ハワード・ヒューズは、若くして親から巨額の財産と会社を引き継ぎ、それを更に、発展させて巨万の富を築き上げた、まさに大富豪です。ただの大金持ちなら、この世にたくさんいるでしょうが、彼がこれほど有名なのは、映画産業に乗り出して自ら監督し作品を作り、美人女優たちと浮き名を流したこと、更に、航空業界でも、数多くの優れた飛行機を設計して自ら操縦桿を握り、数多くの飛行記録を打ち立てたと言う、ユニークな経歴の持ち主だからです。しかし、一番の理由は、晩年になって、人前に一切姿を見せず謎の暮らしを送り、若き日の華麗な姿からは想像も付かない悲惨な最期を遂げたことにあるでしょう。
その悲劇的な晩年と死は、以前は、麻薬中毒によるものと思われていましたが、現在では、重度のOCDが原因であったことが分かっています。
元々あった、黴菌恐怖が極度に悪化し、ホテルの一室にカーテンを閉めて閉じ籠もり、使用人の運んできた食事を取る際にも、食器はティッシュを介して手に取り、一度使った食器はすべて捨てさせていたそうです。やがて、食物に対しても不潔恐怖が強まり、満足に食事も取れなくなったようで、死体で発見されたとき、190cmの彼の体重は、40kgにも満たなく、髪も髭も伸び放題で、本人となかなか確認できなかったと言います。
彼が生きていた時代にOCDの研究がほとんど進んでいなかったことが彼の不幸の原因なのは間違いありませんが、僕には、彼があまりに富と権力を持ちすぎていたことも、不幸の一因のように思えてなりません。彼の周囲は、所謂、「イエスマン」でいっぱいだったでしょう。彼の異常な行動に注意を払い、彼を気遣い、彼が気分を害することを怖れずにアドバイスを送る人物がもしいたとしたら…。
OCDと深く関係のある彼の完璧主義が、傑作映画や優秀な航空機の設計に役立ったことは紛れもない事実です。彼の技術は現在も多くの分野で生かされ、彼の残した会社は富を生み出し続けています。宇宙開発の分野でも、彼のアイディアから生まれた技術はかかせないものです。
しかし、ハワード・ヒューズと言う、一人の人間の人生は如何なるものだったのか？僕は考えずにはいられません。彼は富も名誉もすべて手に入れたかのように見えます。でも、その彼に、真に、心安らぐひとときはあったのか、幸せを満喫し人生の喜びを謳歌する瞬間はあったのでしょうか。もしも、あったとしたら、それは、彼が何よりも愛した大空を、自ら設計した飛行機に乗って飛んでいたときかも知れません。ちなみに、「Aviator」とは、英語で「飛行機乗り」と言う意味です。
今まで映画やドラマで、OCDな人が主人公なものについて語ってきましたが、実は、漫画でもあったんです。
何という雑誌に載っていたか、作者が誰だったかも覚えていません。いつ読んだんだろう？
たぶん、僕が二十代の頃だったような気がするなあ。その短い漫画を目にしたときのショックは今も記憶の中で鮮やかです。
主人公は教師で、名前は、又槍直志。名前がこの字だったかは自信がないけれど、「マタヤリナオシ」と言う読みだったのは間違いありません。名前からして、OCDの匂いがプンプンですね。
この先生、朝起きて、服を着る順番が厳格に決まっていて、少しでも間違えると、また、全部脱いで、パンツ一丁から着直すのです。そう、「またやり直し」なのです。いらつきながら、延々と服を着直し続け、結局、家を出ることも職場の学校に行くことも出来ないと言う、典型的なOCD地獄か描かれていました。
世の中には自分と同じ性癖を持った人がいるんだと言う驚きを感じたことを今もはっきりと覚えています。当時の僕には、自分が心の病気だという自覚はなく、変わった性癖の持ち主だという意識しかありませんでした。
果たして、あの漫画の作者はOCDだったのでしょうか？その可能性は高いと僕は思います。主人公のあのようなエピソードが、普通の人にとって、ギャグになるとは思えませんから。
強迫神経症と言う言葉もほとんど知られていなかった昔に、なぜ、あのような漫画が掲載されたのか今でも謎です。
タイトルだけ見ると、大宅壮一か藤原弘達のような、かつての大御所評論家が書くような文章みたいだけど、僕が書くのだから他愛のないものです。気楽に読んでね。
最近、世の中で溢れているのが、「抗菌」「除菌」「消臭」「防臭」と言った言葉。多いですよね。特に、テレビCMは、これらの言葉のオンパレードと言った趣です。
OCDの僕としては、「みんな、そんなに清潔が好きなんか！」「強迫症状を悪化させたいんか！」思わず叫びたいくらいの毎日です。心の中では実際に叫んでます。それもなぜか、関西弁でね。
抗菌まな板。これは分かる。O157とか怖いものね。便座除菌クリーナー。まあ、これも分からなくはない。他人のお尻が触れた便座を汚いと言うより、公衆トイレのマナーが先だと思うけど。
でも、抗菌ボールペン、抗菌ランドセルと続くと、ちょっと首をかしげたくなる。世の中、そんなにバイ菌だらけか？他人が触れた物はそんなに汚いか？幸い、僕は、不潔恐怖は軽度で、パソコン、万年筆、ギター等、大切なものに触る前に丁寧に手を洗うと言った程度だけど、不潔恐怖が主な症状のOCDの人たちにとって、こうした風潮はどう映るんだろう？
やめてくれ！それでなくても気になるのに！
それとも、自分のような人がいっぱいいるから、こうした製品が流行るんだろう。こうした人間は自分だけじゃなさそうで少しほっとする。
どちらが多いんだろうか？気になるところです。みんなの声が聞きたいな。
ちなみに、確認強迫の強い僕は、以前放送されていた、「戸締まりをしたつもりでも、もう一度」と言う、あのキャンペーン広告が、嫌いというか、観ると頭を抱えたくなりました。
それから、消臭ブームです。これも凄い。
あら、この家、昨夜、焼き肉食べたのね―客の心の声。
やだ、匂いが残ってるわ。恥ずかしい―主婦の心のつぶやき。
いいじゃないかよ！焼き肉、いい匂いじゃないか。うちも、今晩、焼き肉にしよう。そう思ったっていいじゃないか！っていうか、僕なら、そう思うぞ。
ペットの匂いもそうだよ。確かに、他人の家を訪れた動物嫌いの人にとっては嫌な匂いに違いない。でも、自分で好きで飼ってるのなら、匂いは仕方ないんじゃないか。生きているんだ。元気な証拠。ネコを飼っている僕は、トイレの匂いだって全然平気。ただ、鼻先であくびをされた時だけは顔を背けるけど。ネコ好きなら分かるよね。
結局、清潔ブームって、「100%、あるいは、それ未満」と言う、二者択一の考えが、その根底にあるような気がする。匂いやバイ菌が少しであったら、さあ大変！でも、この世の中、相反するものや雑多なものが適度に混ざり合っているのが自然だと僕は思う。OCDを和らげるヒントもその辺りにあるんじゃないかな。
後、最近すごく気になるのが、「加齢臭」に対する世間の以上とも思える反応振り。加齢臭の原因を資生堂が突き止めたことも一因だと思うけど、それにしても、扱いがひどすぎやしないか？
「加齢臭ただよう―」「加齢臭プンプンのおっさんが―」
うるさい！今は立派なおじさんになった僕が考える加齢臭って、社会で働く、大人の男性の匂いなんだな。子供の頃、父親を始めとして、「大人の男の人」たちは、僕たち子供とは違う独特な匂いをさせていた。それは、ポマードの匂いだったり、煙草の匂いだったり、焼き鳥の匂いだったり、背広やワイシャツに染み込んだ汗の匂いだった。時には、昨夜のお酒の匂いもしたりして。
勿論、資生堂の発見した加齢臭の原因が発する匂いもあったんだろうけど、それだけじゃなく、辛く厳しい社会で働く、大人の男の匂いも混ざり合って、何か、子供の踏み込めない、未知の世界を感じさせる「匂い」を形成していたような気がする。
思うに、「加齢臭」に対する過激な嫌悪ブームは、「若いことがすべてに優先する」と言う、一大原理が作り上げたものと言っていい。それは、バブル期を頂点として、マスコミが煽りに煽ってきたものだ。
「若者様。あなた方こそ、社会の主役なのですから、どんどん贅沢して下さいませ。どうか、ジャンジャンものを買って下さいませ」そんな声に踊らされ洗脳された、かつて若かった人たちが親になり、その子らに受け継がれた、DNA遺伝子のようなものだろう。だが、そのDNAもここのところ変異しつつあるようで、
「これからは増え続ける高齢者こそ大切にしなくては。人に優しい、環境に優しい製品を」にシフトし始めている。全く、世の中、お金儲けに余念のない人たちは本当に抜け目のないことで…。
すっかり辛口になってしまったね。ごめん、少し興奮しすぎました。
ちなみに、CMの「消臭プラグの殿」が、僕は大好きです。もう、ファンと言ってもいいくらい！
「はじめてのおつかい」なら可愛いけれど、「はじめての強迫」となると、ゾッとしてしまいますね。でも、その初めての時期が、僕に限っては、同じ頃なんです。人それぞれ、強迫症状が現れる時期は違うと思うけど、僕の場合、かなり早い方なんじゃないかなあ。
僕は今でも、初めて、強迫観念に襲われた瞬間のことをはっきりと覚えています。
それは、幼稚園時代のことです。今も僕が住んでいる家は二階建てで、階段の途中に踊り場があるんです。その踊り場の壁に何かの拍子で手を触れたとき、「はじめての強迫」が僕を訪れました。
どうしてだか理由は全く分からずに、「今、手を触れた場所にもう一度触らなくてはならない！」と言う思いが、当時の僕の小さな頭の中に浮かんだのです。僕は、その思いに素直に従い、壁の同じ場所をもう一度触りました。すると、すぐに、「また触らなきゃダメだ！」と言う思いに囚われたのです。その時、何回、繰り返し、触ったかは、さすがに覚えていません。それが、僕とOCDの長い付き合いの始まりでした。
僕は、その行為を、心の中で、「気にし」と呼んでいました。「また、『気にし』が始まった。いやだなあ」幼い僕は、何度、そう思ったことか。しかし、その初めての辛い症状もいつしか消えて行きました。たぶん、二、三年程の間、その強迫観念は、僕を苦しめたのではないかと思われます。
なぜ、そう分かるかと言うと、小学三年の頃には、別の強迫観念が僕を苦しめ始めていたからです。
それは、「テレビアニメのエンディングテーマを頭の中で正確に歌わないと眠ってはならない」と言うものでした。
そのアニメとは、「おそ松くん」
年齢がバレそうですね。赤塚不二夫原作の傑作ギャグ漫画です。若い人でも、その名前だけは、聞いたことがあるんじゃないかな？
「イヤミ」「チビ太」と言った、ユニークなキャラクターは、今でも新鮮です。当時、イヤミの「シェーッ！」は爆発的に流行りました。知らない人は、お父さんかお母さんにきいてね。
そのエンディングテーマは、三番まであって、かなりアップテンポの曲で、詞も早口で歌わなくてはならず難しかったんです。
子供の僕にとって、その難しさと言ったら、今の僕に、「ドラゴン・アッシュ」の曲を歌え！と言うようなものです。って、ほんとは、「ドラゴン・アッシュ」が何かも、よく知らないんだけどね。
隣で、両親と幼い妹がぐっすり眠っている傍らで、僕は、地獄の苦しみを味わっていました。
何しろ、三番まであるんですから、大抵、途中で、つっかえてしまいます。歌詞を間違えたり、テンポが狂って歌が止まったり…。その度に、また最初からやり直しです。
頭の中を歌詞がぐるぐる回り続ける中、「早く眠らなくては大変だ！明日の学校、どうしよう？」そう思うと、焦って、ますます歌につまずき、まさに、「OCD蟻地獄」状態でした。
あれから、何十年経った今でも、あの苦しさを、僕はまさまざと思い起こすことが出来ます。
でも、そんな僕も歌嫌いになることもなく、いや、逆に、大の歌好きになって、今では、カラオケボックスで、「ルパン三世」のテーマをノリノリで歌っています。エンディングテーマが渋くていいんだよね、また、これが。
僕は、今まで、一度も、所謂、「カウンセラー」と呼ばれる人に、カウンセリングを受けたことがありません。僕が住んでいる町は、小さく、市立病院には、専門のカウンセラーがいるのかも知れませんが、僕が、入院し、今も、数ヶ月に一度ですが、出掛けて、先生とお話しする病院は、僕が入院していた当時、主治医の先生と、そのお父さんである、大先生、それに、週一回、出張してきてくれる、市内でクリニックを開業している先生の三人が、180人もの入院患者を診ていました。勿論、専門のカウンセラーなどいません。
北海道でも、北大病院などは、精神科医の他にカウンセラーが何人もいると聞いています。ただ、予約しても、見て貰う順番など大変だそうですが。
でも、僕には、専門のカウンセラーではなかったのですが、忘れられない名カウンセラーの思い出があります。その人は、僕の町の、制服を着たお巡りさんでした。
あれは、僕が、処方された「アナフラニール」が合わなくて、感情が煽られ、家で暴れるだけでは飽きたらず、近所にまで迷惑をかけていた頃のことです。例によって、夕食後、悪酔いした母が、お決まりの台詞で僕に絡んできました。「おまえがこんなになったのは、私がおまえを生んだせいだ。みんな私が悪いんだよ。私が死ねばいいんだろう？」母の言葉を浴びて、僕は、激情に駆られました。いさかいが頂点に達した時、母が言い放ちました。「おまえ、どうせ暴れるんなら、一度、刑務所に入って根性を叩き直してもらえばいいんだよ。でも、おまえにそんな度胸あるわけないか」
売り言葉に買い言葉、とはよく言ったもので、
「よーし、分かった！刑務所に入ってやる。警察呼べよ、早く！」僕はいきり立ち、母に、警察に通報するよう、促しました。母はさっそく警察に電話をかけ、
「息子が家で暴れて困っています。誰かよこして下さい」そう言ったのです。
一人の中年のおまわりさんがやって来たのは、通報してから、どれくらい経った頃でしょうか。興奮していた僕には、随分と長く感じられました。
その、小柄で風采の上がらないお巡りさんが玄関に入ってきた途端、「遅い！どうしてもっと早く来ないんだ！」僕は、そう、叫んで、お巡りさんの頭を平手で張り飛ばしました。制帽が吹っ飛び、玄関のコンクリートの床に落ちました。彼は、黙って、帽子を拾い上げると、「どうしたのかな？」そう、笑顔を見せて、言ったのです。それが、僕の脳裏に、今でも、しっかりと焼き付いている、名カウンセラーとの出会いでした。
僕は、最初から興奮気味に、自分がどういう病気にかかっているか、そのために心がどれほど苦しいか、馬鹿らしいと思ってもそれに従わなくてはならないと言うことが、どれほどイライラするか、そうしたことを滔々とまくし立てました。どこか、今の平泉成に似た、ちょっと仕事に疲れたおとうさんみたいな顔をした、そのお巡りさんは、僕の速射砲のような、相手に挑みかかる口調の話をただ黙って聞いていました。僕が喋り疲れて黙り込んだとき、彼はやっと口を開きました。
「そう言えば、僕が小学校の頃、君みたいな子がいたなあ」そう語り始めたのです。
何を馬鹿なことを言ってるんだ。常識でものを考えなさい。いい歳をして、御両親に迷惑をかけてどうするんだ。てっきり、そんな言葉が出てくるものと思っていた僕は面食らいました。
「その男の子は、学校の水飲み場でいつまでも手を洗い続けていたんだ。しょっちゅう、そんなことをしているものだから、みんな気味悪がって、その子をいじめていたんだよ。もしかしたら、その子は、君と同じ病気だったのかも知れないね」そして、こう続けました。「もし、あのとき、僕が君の病気のことを知っていたら、その子をいじめから救ってやれたのに」それから、母と事態に仰天して二階から降りてきていた父に向かって、その人は言ったのです。
「お父さん、お母さん、息子さんの考えていることは、心の深い問題で、レベルが高くて、あなたたちには理解できませんよ」その言葉の中の「レベルが高い」と言う部分にちょっぴり優越感をくすぐられたことを覚えています。
社会人として、まっとうな生活を送れていない自分に強いコンプレックスを感じながら、一方では、「僕は他の人とは違う。遙かに繊細で、深く物事を考える人間なんだ」と言うプライドを持っていたことも事実なのです。そのプライドをくすぐられたこともあって、僕の高ぶっていた感情は次第に静まって行きました。
その後、お巡りさんが、どのような言葉を残して帰っていったのか、良く覚えていません。やはり、普通の精神状態ではなかったのでしょう。僕が病院の診察室で暴れ入院することになったのは、それから数ヶ月後のことです。
前に書いたとおり、僕は、専門のカウンセラーのカウンセリングを受けたことがありません。でも、あの時のお巡りさんは、実に優れたカウンセラーだったと僕は今も思っています。
それは、彼の人柄によるものだったのかも知れません。あるいは、専門の教育、例えば、家庭内暴力を振るう引きこもりの少年と接する技術を学んだ人だったのかも知れません。
今なら、僕は、あの人にもう一度会って話したい気がします。ただ、あの時の、彼が小学校時代に目撃したいじめの話が事実だったのか、それとも、僕を落ち着かせるために咄嗟に創作したものだったのか、それは知りたくないけれど。
入院して、一番、辛かったこと。それは、夜眠れないことでした。
それまで、「引きこもり」同然の生活をしていた僕は、「引きこもり」のお約束、「昼夜逆転」の生活を送っていました。現在、旭川にいる、妹の次男も、引きこもり生活を送っていて、妹によると、やはり、昼夜逆転生活を送っているとのこと。
これは、やはり、仕方のないことだと僕は思います。
引きこもりになり、昼間、家にいると、色んなことを考えてしまいます。
今頃、みんな勉強しているんだろうなあ。一生懸命、働いているんだろうなあ。
それなのに、自分は…。
昼間、テレビを付ければ、主婦向けの情報番組ばかりで、
ああ、世間の人たちは、みんな家庭を持って幸せな生活を送ってるんだ―僕など、つい、そう思ってしまいます。
夜も、8時くらいまでは、家族が揃って観るようなバラエティばかり。
やっと、10時頃になって、一人でいることに引け目を感じないですむ、安らぎの時間がやって来ます。
中学三年の時、不登校になった僕も、さっそく昼夜逆転の生活になりました。
その頃は、「不登校」はおろか「登校拒否」と言う言葉もなく、両親や祖父母に、
「学校に行かない子供なんて、日本中、捜したって、おまえの他にいないよ」そう言われたものです。もし捜していたら、きっとゴロゴロいたでしょうね。しかし、その当時は、そのような子供たちについての情報はほとんどなく、一人一人が孤立して、「学校に行けない子供なんて、自分くらいだろうな」そう思い悩んでいたに違いありません。
さて、病院での日課は、僕がいた当時、ざっと次の通りでした。
朝6時に病室の電気がパッと一斉に付き、起床。午前8時に朝食。10時から30分程、レクリエーションタイム。これは、毎日あるわけではなく、週三回。午後、グラウンドで、ソフトボールをやることもありました。
11時45分に昼食を取った後は、自由時間。午後6時に夕食を取り、睡眠薬をもらいます。その後、パジャマに着替えて、大抵の入院患者は、デイルームで、夜のテレビ番組を観ます。そして、9時ちょうどに消灯し就寝となります。
睡眠薬の効き目で、ベッドに入ってから30分程で、眠りにつくことは出来ました。しかし、決まったように、真夜中の12時頃に目が覚めるのです。そして、一度目覚めたら、もう二度とは眠れませんでした。
起き出してどこかに行くことも出来ず、僕は、ベッドの中で、悶々としているしかありません。夜中に、数回、夜勤の看護師さんが、各病室を巡回に来て、懐中電灯で部屋の中を照らし、患者の様子を確かめます。僕は、顔を枕に埋めるようにして眠っているふりをします。別に起きているところを見付かっても咎められる訳ではないのですが、
「眠れないの？」と小声で訊かれるのが、何だか、きまりが悪く、眠っているふりをするのが、いつしか癖になりました。
起床は、午前6時なのですが、暗黙の了解で、5時になれば、部屋を出て洗面所に行き顔を洗うことが許されていました。だから、夜中に目覚めてからは、ただひたすらに、朝の5時を待つ、と言うのが、僕の毎晩の辛い習慣でした。
当然、その分、昼間、眠気が襲ってくるのですが、病院と言うところは、検温やら血圧の測定などで、看護師さんが病室を訪れることも多く、なかなか、昼寝をすることも出来ないのです。だから、僕の頭は、しじゅう寝不足で、ぼんやりとしていました。
そんな夜眠れない毎日が続いていたある日、一人の介護ヘルパーさんが、僕にアドバイスをくれました。
「そんな時は、CDをイヤホンで聴いてると、いつの間にか眠れるわよ」その人は、五十代の、パキパキした物言いの、さっぱりした性格の人で、最初に僕と話したとき、
「ゆうじさんは、外見は穏やかそうに見えるけど、内面は、激しい気性の持ち主よね」そう言って、僕を驚かせました。当たっていたからです。激しい気性だからこそ、状態が悪くなり、理性と本能、二つの別の力で心が引き裂かれそうになったとき、暴れてしまったのです。
彼女のアドバイス通り、週一回、面会に来てくれる両親に頼んで、うちにある、ウォークマンと何枚かのCDを持ってきてもらいました。
最初、僕は、眠りにつくのが目的だから、人が歌っているものより、歌のない、演奏だけのもの、つまり、インストゥルメンタルの曲の方がいいと思い、何枚か試してみました。いかにも、癒し効果満点と言った、美しい映画音楽などです。ヘルパーさんが貸してくれた、当時はまだそれほど有名でなかった、フジ子・ヘミングのピアノ曲集なども試してみました。しかし、効果はなく、眠りに引き込まれることはなかったのです。
そこで、趣向を変えて、今度は、人の歌っているものを試すことにしました。
僕は、少し懐かしめのスタンダードナンバーが好きで、ナット・キング・コールやペリー・コモと言った、昔の歌手のCDを結構持っていました。中でも、一番のお気に入りが、フランク・シナトラでした。
F・シナトラと言うと、「マイ・ウェイ」の熱唱を思い浮かべる人が多いと思いますが、実は、四十代の頃の、ちょっと枯れた艶っぽい声で歌う、スタンダードナンバーが最高なのです。
結局、彼の歌声に、僕は救われることになりました。二枚組の、それぞれ20曲ずつ入った、名曲全集と言った感じのアルバムなのですが、最初から、一曲、一曲、聴いて行くのです。お気に入りの曲になるまで、他の曲を聴きながら静かに待ちます。
一番のお気に入りは、「マイ・ファニー・バレンタイン」で、これは、19曲目にあって、そこまで辿り着くのに、随分と時間がかかります。その「マイ・ファニー・バレンタイン」を待っている間に、僕は、いつの間にか、眠りに引き込まれるのでした。
それは、あたかも、列車に乗って、目的地に向かう乗客が、目的地に着く前に眠ってしまい、目的の駅を乗り過ごしてしまうような感じでした。
だから、「マイ・ファニー・バレンタイン」を病室のベッドで、夜、聴いたことは、ほとんどありません。
さて、一方で、MISIAです。彼女の声を初めて聴いたのは、デイルームで観た、テレビ番組の中でした。
たぶん、「カウントダウンTV」だったと今では思うのですが、その歌声は、暖かく深みがあって、曲の素晴らしさも手伝い、すぐに僕の心を捕らえました。
名前だけは聞いたことがあったのですが、声を聴くのは初めてでした。曲は、「Everything」
彼女の最初の大ヒット曲でした。
僕は、今度は、自分で、彼女のCDを買いに行きました。その頃は、外出許可がもらえるようになっていたからです。
彼女の曲も、ベッドの中で何度も聴きました。F・シナトラと違うのは、彼女の声は、眠りを誘うのではなく、眠れないことの辛さを忘れさせてくれると言うことでした。アルバムも、「Everything」を含めて全部聴くのが常でした。
後になって、彼女がゴスペルに深く傾倒していて、日本のゴスペルの第一人者、亀淵友香さんのボイストレーニングを受けていたことを知りました。
退院してから、約半年後、僕もゴスペルを歌うようになったのは、彼女の影響があったのだと今にして思います。
F・シナトラもMISIAも、家でよく夜中に聴きますが、今は眠ることもなく、その歌声を、ゆっくりと味わっています。
これからお話しするのは、僕にとっては、かなり苦い思い出で、実際、この文章を書くために、当時の事を思い出してみたのですが、それだけで、胸の内に、怒りと悔しさが甦り、感情の高ぶりを覚えてしまいました。
しかし、OCDに限らず、精神障害を抱える人間にとって、そのことを、他の人々、精神障害を患っていない人々にですが、知られる、あるいは、自ら告白すると言うことは、とても大きな問題なので、僕は、敢えて、この体験のことを書こうと思います。この文章を読んだ人の、参考になることを信じて。
僕が精神科の専門病院を退院したのは、2001年の2月のことです。退院した翌日に、油絵を昔やっていて、今も時々描いている、親戚のおじさん、母の従兄弟に当たる人ですが、その人に連れられ、市内唯一の油彩の道具を売っている画材店に行ったことを覚えています。おじさんのアドバイスで画材を揃え、家に帰った僕は、さっそく、油絵という、絵の好きな僕にとって、未知の憧れの世界へと第一歩を踏み出したのです。
最初に描いたのは、ベネチアにある、「リアルト橋」でした。運河にかかる、この、美しいアーチ状の橋は、その橋の中に、たくさんのお店があって、ちょうど、市場をそのまま橋にして川の上に架けた、そんな感じの橋なのです。
入院していたときから、雑誌で、この橋の写真を見ては、いつか描いてみたい、そう思っていました。
初めての油絵制作は、喜びと驚きの連続で、描き上がって、絵の具を乾かすため、テーブルの上に立てかけてあるのを眺めていた時の満足感は、今も忘れられません。
その僕の初めての作品は大切にとって置いたはずなのに、少し前、久し振りに見たくて捜したところ、どこを捜しても見付からず、紛失してしまっていたことが分かりました。
以前、作品を整理するため、どうしようもない失敗作を処分したことがあるのですが、その時に、それらの失敗作に紛れ込んで、誤って捨ててしまったようです。
僕の処女作、「リアルト橋の風景」は、結局、幻の作品となってしまいました。
退院してからの僕は、油絵を始めとして、新しい、色々なことに挑戦しようと張り切っていました。心機一転、僕は、それまで、OCDによって台無しにされ、失った、人生の喜びや醍醐味を取り戻そうとしたのです。
今考えると、そのことを急ぐあまり、少しばかり、焦り、張り切り過ぎていたように思います。それが、あのショッキングな出来事を招く原因になったのかも知れません。
僕は、今まで、人前に出るのが苦手で家に引きこもりがちでした。これは、人嫌いというのではなく、逆に、人が好きで人と話すのが楽しみなのに、自身に対するコンプレックスのため、人と上手く対話することが出来ず、そのため、人の集まる場所に出ると、自分の思いとは裏腹に孤独感を感じてしまうことが多かったからです。
でも、そんな殻を打ち破ろうと、僕は勇気を出して、人の集まる場所に出ようと決心しました。
そうして、最初に、選んだのが、ボランティアに参加する、と言うものでした。確か、ボランティアに関する情報を載せた「フリーペーパー」を見たのだと思いますが、そこで、僕は、一つのボランティア募集の記事に目を留めました。
それは、「札幌市郊外にある、大人の知的障害者が集団生活を送っている施設でボランティアを募集している」と言うものでした。僕は、入院していた時、何人かの知的障害の人たちと知り合い、その中の二人とは、とても仲が良かったのです。僕のいた病院は、精神障害者だけでなく、認知症や寝たきりの高齢者、知的障害者施設に馴染めない人たちも受け入れていました。また、僕の甥っ子は、自閉症で、小さな頃から遊んだりしていたので、知的障害を持った人たちには、自分なりの知識と理解、そして親近感を持っているつもりでした。だから、これは、僕に相応しいボランティアに違いない、そう思ったのです。
さっそく、僕は、記事に載っていた電話番号に電話をかけ、次の水曜日に見学に行く、と言うことになりました。実は、その電話をかけること自体、とても勇気のいることだったのですが、僕の電話に対する恐怖感については、また別な時に話そうと思います。
次の水曜日、退院してから、二ヶ月経った頃、四月のとても天気の良い日だったと記憶しています。僕は、その施設に出掛けました。
僕の住んでいる町から札幌までは、電車や高速バスを使って一時間弱かかります。施設に行くには、札幌駅から地下鉄に乗り終着駅で降りて、更にまた、バスに乗らなくてはなりません。その施設に着くまで、たっぷりと二時間はかかりました。
施設は、山の麓にあり、広々とした敷地に、住居や作業所などが、いくつもあり、とても良い環境でした。
住居となっている大きな建物に入り、面会を申し込むと、まだ二十代と思われる女性職員が応対に出て来て、
「よく来てくれましたね」そう言って、施設を案内してくれました。建物の中には、大きなリトグラフや、ここで暮らしている人が描いたものと思われる絵がたくさん飾ってあり、明るく広々として、とてもいい雰囲気でした。
まず、応接室のような部屋に通され、この施設の具体的な説明を聞かされました。それから、僕自身の自己紹介と言うことになり、僕は、二ヶ月前に精神科を退院したこと、新出発としてボランティアに参加することを選んだこと、自分が知的障害者との交流の経験があることなどを話しました。初めに、自分自身のことを、きちんと知っておいたもらった方がいいと思ったからです。
女性職員は、僕の話をじっと聞いていました。それから、
「これから、施設の中を案内します。ここで、暮らしている、みんなと引き合わせますね」そう言って、立ち上がりました。僕は彼女の後について、施設の中へと入って行きました。
僕が最初に案内されたのは、病院で言えば、デイルームのような部屋で、そこには、20人程の、そこで暮らしている人たちがくつろいでいました。年代は幅広く、障害の程度も様々のように僕には見えました。
僕が自己紹介をし、みんなも、一人一人、自己紹介をしてくれました。二人ほど、とてもしっかりとした話をする若い女の子がいたのが印象に残っています。どうやら、みんなの世話役のような感じでした。
「今日一日、みんなと過ごして、その上で、参加するかどうか決めて下さい。今日は、『音楽療法』のある日なんですよ。一緒にやりましょう」女性職員は、そう言って、僕を、みんなと共に、別の部屋に連れて行ってくれました。
その部屋には、エレクトーンや打楽器など、色々な楽器が置いてあり、床には、カーペットが敷き詰められています。しばらくすると、四十代くらいの、明るく気さくな感じの、眼鏡をかけた女性が入ってきました。そして、僕は、「音楽療法」と言うものを初めて体験したのです。
先生は、エレクトーンの前に座り、みんなに明るい調子で語りかけます。
「じゃあ、今度は、海の底のコンブになってみましょう！」そうして、効果音のかかった音で、ゆったりとしたメロディーを弾き始めます。すると、みんなは、音楽に合わせて、海の底で揺れているコンブのまねをして、身体をくねくねと動かします。それぞれ、動きもテンポも違い、海の底のコンブのイメージが、一人一人違うことが分かります。僕も、みんなと一緒に身体を動かしました。僕は、東京にいた頃、お芝居の経験があり、その練習のことを思い出しました。部屋は、窓にカーテンを下ろして光が入らないようにしてあるので、部屋の中は、本当に、海の底のような感じでした。
その他にも、先生の指示に従って、みんな、色々なものになりました。音楽に合わせて、様々なものをイメージし、身体を使って表現する、それが、「音楽療法」というもののようでした。
「音楽療法」を行ってくれた女性は、札幌でも有名な「音楽療法」の専門家で、多忙な中、週一回、水曜日に来てくれている、とのことでした。
「音楽療法」には、僕を案内してくれた女性職員の他にも、何人かの職員さんが参加していたのですが、皆、二十代と思われる若い人ばかりで、「園長さん」らしい年配の人やベテランの職員さんがいないのが、ちょっと不思議な気がしました。
見学が終わり、女性職員から、
「どうします？参加しますか？」と訊かれ、
「はい。ぜひ、参加させて下さい」と僕は答えました。何より、「音楽療法」が、音楽好きな僕には興味があったし、施設の雰囲気も明るかったからです。
「それでは、どのような形で、参加されますか？」と問われ、
「出来れば、『音楽療法』のある水曜日に参加したいです」と言いました。
「結構ですよ」女性職員は、快諾してくれました。そこで、
「毎週参加してもいいですか？」と訊ねたところ、
「ええ。ここは、男手が足りないので、大歓迎です」そう言って、喜んでくれました。
帰るときになって、三十歳くらいの男の人が入ってきて、女性職員が、僕をその人に紹介してくれました。
「こちら、ボランティア募集を読んで見学に来てくれた方です。こちらが、ここの施設長の―です」僕が頭を下げると、その男の人は、
「そうですか。御苦労様です。今、作業の方から帰ってきたところです。よろしくお願いしますね」そう言って、忙しそうに奥へ入って行きました。
僕は、遠出をしてきた甲斐があったな、と満足して家路に着きました。来週から、ここで、みんなと「音楽療法」やその他のボランティア活動が出来、みんなと少しずつでも、仲良くなれるんだなあ、と嬉しい気持ちでいっぱいでした。
退院してからの新しいスタートを順調に切ることが出来た、僕はそう思っていたのです。
次の水曜日、僕は、張り切って、また、その施設に向かいました。退院して以来、自分らしさを発揮でき、自分の存在している価値を確かめる、そんな場所が出来たことに、気分は高揚していました。
施設に着くと、この間、帰り際に会った施設長が迎えに出て、
「今日は、他にも、ボランティア募集に応募してくれた人たちが来ているんですよ」そう言いました。そして、僕は、その新しい人たちと共に、ざっと施設を、もう一度、見学することになりました。その日、応募してきたのは、女子大生だと言う二人と二十代の男性の三人でした。
その日は、ここに暮らすみんなと活動することもなく、見学は、すぐに終わり、僕らは、施設長と共に、小さな和室に入り、車座になって座りました。
「では、ミーティングを始めましょう。まず、ボランティアの参加方法から説明します」そう言って、彼は、説明を始めたのですが、それは意外なものでした。
「ここでは、ボランティアは登録制で、参加者はメンバーとして登録してもらい、こちらから、ボランティアさんが必要な時に、御連絡を差し上げます」先週、女性職員が僕に話してくれた内容と違っていたのです。
登録制のボランティアは、お呼びがかかった時だけ出掛け、責任者から指示を受け、その日、必要な勤労奉仕をする、と言うもので、もし、その日、自分が担当した障害者の人と親しくなったとしても、その日が終わって別れてしまえば、また、いつ会えるか、全く分からないのです。まして、僕は、人とは、じっくり時間をかけて付き合わないと、心を伝えることが出来ない質なので、とても、一日そこらで親しくなれるとは思えません。
僕が求めていたのは、永続的な人間関係であって、今、問題になっている「派遣業務」のような、一時的な、即戦力としてのボランティア活動ではなかったのです。
先週も、「登録制」でないことを聞いて、ホッとして帰ってきたのです。それが、先週聞いたこととは違い、「登録制」であることを知って、僕は、すっかり気が動転してしまいました。期待が大きかっただけに、失望も大きかったのです。
僕は、施設長に、先週聞いたのと話が違うこと、それから、「登録ボランティア制度」についての僕の考えを話しました。気は動転していたものの、せいいっぱい冷静に話したつもりです。
施設長は、女性職員と連絡の行き違いがあったこと、「登録制」の方がより合理的であることを説明しました。
本来なら、ボランティアを募集している側の人間がそう言うなら、こちらは、それに従うしかないわけですが、僕は、どうにも素直に引き下がる気がしなかったのです。
それには、理由がありました。
実は、ミーティングの本題に入る前に、雑談をしたのですが、その中で、施設長が、
「ここにいる人間でも、恋愛感情は持っていてね。この間も、一人の入居者が、ある女の先生を好きになってしまい、一悶着あって大変だったんですよ」そう、笑いながら言ったのです。
その言葉を聞いて、僕は、違和感を覚えました。障害者施設を管理運営する人間としては、軽率な発言だと思いました。それ以上に、健常者の障害者に対する驕りのようなもの、僕は、それを言葉のニュアンスから感じました。いささか、神経過敏と思われる方もいるかも知れません。でも、人間というものは、思わぬところで、本音を露呈するものだと、僕は、これまでの経験で知っています。
そのこともあり、僕は、その施設長にあまり好感を持っていなかったので、つい、議論口調になっていたかも知れません。
しばらく、二人で議論していると、突然、大きな声がしました。その日、見学に来ていた、二十代の男性が僕に向かっていったのです。
「あなた、本当に大人げないな。いつまで、子供みたいに駄々をこねているんですか？僕の父は分裂病で自殺したけど、その父親に、あなたは、そっくりだ！」僕はショックを受けました。いきなり、その日が初対面の年下の人間になじられたのにも面食らいましたが、それ以上に、なぜ、精神病で自殺した父親の話が、ここで出て来るのだろう？そのことに、驚いたのです。
瞬間、思ったのは、僕が精神科を退院して間もない精神障害者であることを、彼は知っていたんじゃないか？と言うことでした。もし、そうだとしたら、目の前にいる施設長が、僕が今日ここに来る前に、先に来ていた彼に、僕のことを話したとしか、考えられません。
そう考えると、僕の想像は悪い方へと膨らみ、「登録ボランティア制度」と言うのも、僕を参加させないための方便ではないか、と思えてきたのです。
女性職員から僕の病歴を聞いた施設長が、上司の理事長辺りの人物に相談したのではないか？もし、僕のような人間をボランティアとして参加させて、もし問題を起こされたら責任問題になる、何か適当な理由を付けて、お引き取り頂くように。僕が今日来る前に、その様に話が決まっていたのではないか？僕は、短い時間の間に、そう思いを巡らせたのです。
それからは、何を言っても無駄だ、自分が惨めになるだけだ、そう思い、僕は何も喋りませんでした。
帰りは、施設長が、僕らを車に乗せて、駅まで送ってくれたのですが、車中で、施設長は、しきりと女子大生二人に、所謂、「タメ口」で話しかけていました。
「へえー、君たち、来年、卒業なんだ。就職活動大変だよねー。でもさー」口調が、施設の中にいた時とは別人です。
ここは、合コン会場かよっ！僕は、思わず、胸の中で、ツッコミを入れていました。
家に帰ってからも怒りは収まらず、キャンバスを引っ張り出し、ひまわり畑の絵を、物凄いスピードで描いたことを覚えています。まさに、怒りで「炎の人」になっていたわけですね。
それでも、気持ちが収まらず、後に、その施設宛に、手紙を書きました。僕が精神障害者だから断ったのか？心の通わない「登録ボランティア制度」は、ボランティアをする人間を、自己満足に陥れやすいのではないか、等々。
当然と言うべきか、返事は、梨の礫でした。
今まで、人間関係でショックを受けたことは、いっぱいあります。でも、その施設での出来事程は、傷付きませんでした。
それほど僕が傷付いたのは、再出発しようとして張り切っていた出鼻をくじかれたと言うこと、そして、自分の懸命な姿が、ある人には、統合失調症患者のように見えると言うこと、その二つの理由だと思います。
僕の心の中にも、いや、誰の心の中にも、自分より下だと思える人間への驕りの気持ちは、残念ではあるけれど、あります。入院中、状態の悪い統合失調症の患者さんを見て、やはり、なんだかんだ言っても、僕の方がマシかな。そう思ったのも事実です。
しかし、その驕りを捨てることは出来なくても、そうした驕りを持っていることを常に意識することは出来ます。
そうしたことに注意を払いながら、出来るだけ素直に誠実に人と接する。福祉に関しては、その辺りが一番大切なことのように僕には思えるのですが。
その日以来、僕は、しばらく、自分が精神障害者であることを人に話すことに臆病になりました。しかし、今では、自分なりの、カミングアウトすべきかどうか、の基準のようなものを持っています。
それは、告白することが、相手にとって、ためになることかどうか？と言うものです。相手が、僕が障害者であることを知って、安心したり、役に立ったり、何か意味のあるものなら、告白する。そうでないなら、告白しない。
思えば、あの時、女性職員に、自分が精神障害者であることを話したのは、自分は世の中の偏見に負けない勇気のある人間だと、自分に言い聞かせたかったからのような気がします。結局、僕は、自分のために、カミングアウトしたのです。
確かに、精神科を退院してわずか二ヶ月しか経っていない人間をボランティアとして参加させることに危惧を抱くのは無理からぬ事だったと、今は、冷静に思います。
「カミングアウトは、流れに任せて」
このスタンスで、僕は、これからも生きて行こうと思っています。
リー・ベア著「妄想に取り憑かれる人々」を読み終わりました。感想を書いてみようと思います。ミステリではないとは言え、これから読む人も多いと思うので、あまり詳しい内容には触れないつもりです。やはり、読書の楽しみは、それがどの分野であれ、その本の内容が、自分にとって未知のものであることに変わりがないと思うからです。
まず、目を引くのが、目次の「おぞましい」という言葉の、オンパレード。
「おぞましい想念」と言う言葉が、ズラリと並んでいます。これだけで、OCD患者は、書店で手に取っても、この本は読まない方がいいかも。症状が悪化しそう。そう思ってしまうかも知れません。
逆に、OCD患者でなければ、おっ、これは、ノンフィクションのホラーかも！と好奇心から買ってしまいそうです。そうなれば、まさに、「つかみは、OK！」と言うわけですが。
言葉が紡ぎ出すイメージの力が、この目次を読むだけでも分かるから、面白いです。原書の英語では、何となっているのか分かりませんが、似たような意味の「いまわしい」では、ここまでの迫力はありません。
「いまわしい想念」いまいちでしょ？この本には、OCD患者を苦しめる「強迫観念」としての妄想の例が、数多く載っていますが、その中には、性にまつわるもの、例えば、近親相姦、性的虐待などがあり、それらを想起させる言葉としては、やはり、「おぞましい」と言う言葉が一番適切なようです。
ここで、ちょっと言葉遊びとして、「おぞましい」の「お」の字を、「の」に変えてみましょう。すると、「のぞましい」
「のぞましい想念」何だか、清潔で理想に満ち溢れたイメージが沸いてきて、どこかの政党の広告キャンペーンみたいになっちゃいました。それほど、私たちは、言葉の持つイメージに、強く縛り付けられている、と言うことも出来ます。
イメージに縛られる。それは、OCDにも、ピタリと当てはまります。目次からして、「強迫観念」と言うものについて、つい考えさせられてくれる本です。
内容は、決して、過激でも興味本位でもなく、強迫的な行動や儀式を伴わない、その分、心に沸いてくる、自分の思いとは裏腹なイメージに縛られ、脅かされ、苦しむ人々のために書かれた本なので、OCD患者の皆さんも、安心して手に取って下さい。
この本で取り上げられているのは、心の中に、「天の邪鬼」が住み着いてしまっている人々です。「天の邪鬼」とは、エドガー・アラン・ポーの小説に出てくる言葉で、その人の思いと反対に、その場で、やってはいけないことをやらせたり、言ってはいけないことを言わせようとする、邪悪な小悪魔のことです。この存在が、勿論、そんな小悪魔など、想像の産物に過ぎないのですが、人の心に巣くう、理不尽な「強迫観念」を、上手く言い表しているため、この本の中で、著者リー・ベア博士は、そう読んでいます。
そうした「強迫観念」の例を挙げると、敬虔なキリスト教徒が、教会の厳かな儀式の最中に、神を冒涜する言葉を叫んでしまうんじゃないか？母親が、自分の大切な子供なのに、いつか自分が、その子を殺してしまうんじゃないか？娘を心から愛している父親が、心の底では、自分は娘とのセックスを望んでいるのではないか？等と言うものです。
僕自身も、昔から、そうした強迫観念を感じることはありました。
卒業式の「呼びかけ」の時など、
「私たちは、今、巣立つひな鳥―」等と声を揃えて言う、あれです。あのような時に、「ウッキャッキャー！」と奇声を発したら、みんな、どんなに驚き、自分が非難されるだろうと想像して、何だか、本当に、しそうな気がして不安になったりしました。
しかし、僕は、それに囚われ苦しむことはありませんでした。なぜなら、既に、たくさんの強迫観念や、それによる行動と儀式に脅かされることに慣れ親しんでいた僕にとっては、心の中に、ふと沸き起こる、そんな強迫観念など、数多くの強迫観念の「その他大勢の一人」に過ぎないと、直感的に分かっていたからです。自分が、実際に、そんなことはしない、しそうな気がして不安になるだけだ、そう分かっていました。
しかし、強迫的な行動や儀式を行わない人たちにとっては、そうした心の中だけの強迫観念が、「唯一無二の存在」であるがゆえに、とても恐ろしいものなのです。質の悪いことに、心の中の強迫観念は、行動や儀式と違って、他人の目から隠しやすく周囲に知られないので、そのことが、「こんなことを考えているのは、自分だけじゃないか？」と言う、孤独感や焦燥感を強める結果になってしまうのです。
現在の僕にも、心の中の強迫観念はあり、それは、お芝居を観ている最中に、それも、いい芝居、役者が熱演している芝居に限ってですが、「そんな、つまらない芝居なんか止めろ！観てられないぞ！」そう、観客席から、叫んでしまいそうな気がして、じわりと脂汗をかいてしまうことがあります。また、ゴスペルのライブで、歌っている最中に、「止めた、止めた！こんな歌、バカバカしくって歌ってられないよ！」そう、ステージで言いたくなる衝動に駆られることもあります。しかし、これらの強迫観念も、かつての卒業式での強迫観念が場所を変えて現れているだけなのが、僕には分かっているので、怖れるに足りません。
それから、チビが、甘えてひっくり返り、お腹を見せているときに、「もし、今、足で、お腹を踏みつけたら―」そう考えることも、たまにあります。でも、自分は、その考えを決して行動に移さないこと、その強迫観念が、自分が絶対やってはいけないことに絞って、ピンポイントで攻撃を仕掛けて来ることが分かっているので、怯えることはありません。
しかし、僕とは違い、そうした、心の中に住み着いている「天の邪鬼」に苦しんでいる人々が、この世の中には、いっぱいいることを知り、勉強になりました。
僕がこの本を読んで、一番、収穫だったなあ、と思ったのは、「認知療法」について、詳しく知ることが出来たことです。
僕が入院していた当時、行動療法と言えば、「暴露療法」のことしか、専門書にも書かれておらず、「認知療法」の存在は、ここ最近まで知りませんでした。少し前に、NHKの教育テレビで、「認知療法について」と言う、番組欄を見たときにも、ああ、認知症のお年寄りの症状を改善させる治療法のことかな、と思って観なかったくらいです。
この「妄想に取り憑かれる人々」を読んで、「認知療法」のことを詳しく知り、自分がこれまで自己流で行ってきた「自分を納得させる」と言う、OCDの頭を撫でて、やり過ごす方法と、よく似ていることに驚きました。このことは、もっとよく考え整理してから、別のページで書こうと思っています。
この本は、タイトルから想像されるような、グロテスクなものでは決してありません。ぜひ、手に取ってみられることをお勧めします。特に、強迫行動を伴わない、心の中だけの強迫観念、「天の邪鬼」に苦しんでいる方には、強く、お勧めします。
それにしても、この本を読み、OCDに精通した心理学者や精神科医が数多くいる、「心の病」の先進国、アメリカを改めて羨ましく思いました。
誰でも、人生をある程度生きてくれば、あの時、ああしておけば良かった、あの時に、タイムマシンで戻ってやり直せたら、そう思う、「人生の分岐点」があるのではないでしょうか。
勿論、あの時、ああしていたから今の自分があるのだと言う、幸せや成功へと繋がる道を選んだのなら、何の問題もないのですが、やはり、人間というのは、後悔する生き物のようで、「たら、れば…」の方が多い気がします。
僕の場合は、はっきりとしています。「あの時に戻ってああしていたら！」そう思う、人生の「分岐点」が、僕にはあるのです。
それは、中学二年の三学期、季節で言えば、ちょうど今頃です。その時、僕は、北海道のオホーツク海沿岸にある港町、網走市にいました。
僕の父は公務員で、僕が小学六年の時、転勤になり、今、僕が住んでいる町から、網走に転校することになりました。転勤が決まったのは、小学校の卒業式の直前で、普通なら、新しい土地の中学で、新学期から中学生活を始めると思うのですが、なぜか、父の転勤時期の関係で、僕は、この町の中学に入学して一ヶ月してから転校したのです。
すぐ転校すると分かって入学した、この町の中学は、皮肉なことに、楽しいものでした。クラスにもすぐに溶け込み、一ヶ月はあっという間に過ぎました。
転校するとき、やはり寂しさはあったものの、それ以上に、網走という、新しい土地での生活への期待感の方が、大きかったように思います。海のある町で暮らせる、それは、僕にとって、何よりの魅力でした。
ただ、転校する前、僕は、祖父から妙な約束をさせられたのです。
それは、中学三年になったら、この町の中学に戻ってくる、と言うものでした。両親や妹とは別に、僕一人が、です。理由は、網走より、この町の方が教育環境も良く、進学校として知られる、この町の高校を受験するには、ここの中学で一年間でも勉強した方が有利だから、と言うものでした。
祖父は元教師で、僕が一ヶ月通った中学とは別の、市内の中学の校長を長年勤めて退職していました。若い頃、活動写真の弁士になりたくて、家出同然に上京したことがあったくらいでしたから、人間的には、人と付き合うことが大好きな面白みのある人でしたが、教育者にありがちな学歴偏重主義なところがありました。
祖父は、僕を、小さな頃から医者にしたかったようで、その理由は単純でした。自分の教え子たちの中で、一番優秀だった者は、皆、医科に進学したから、ただ、それだけでした。
僕自身は、小児喘息で身体が弱かったのでお医者さんの世話になることも多く、あの苦しみから救ってくれるのが医者なら、なってもいいかな、それくらいに思っていました。
僕は、特に反発することもなく祖父の提案を受け入れました。両親も自分たちの子供のことでありながら、祖父の提案に反対することもなかったようです。
母は、祖父母の一人娘で、父は養子でした。父には、もしかしたら、別の考えがあったのかも知れませんが、当時、祖父の権限は我が家でかなり大きく、何も言えなかったのかも知りません。
ただ、父も、自分が公務員として学歴がないことで苦労していたせいで、祖父に輪をかけたような学歴至上主義で、その点では、祖父と意見が一致していたとは思います。
ただ、今にして思うのですが、祖父にとっては、孫の僕を手元に置いておきたかったと言う、その気持ちの方が強かったのではないか、そんな風にも思えるのです。父は出張が多く、母も病気がちだった僕は、祖父母と一緒にいる時間が多く、所謂、「おじいちゃん子、おばあちゃん子」でした。
もしかしたら、中学三年になったら、父の仕事とは関係なく、一人でこの町に戻って来い、と僕に言ったのは、祖父の、ただの「孫可愛さ」だったのかも知れません。その気持ちは、祖母も同じだったと思います。
とにかく、そんなわけで、僕は、網走という、新しい土地で、少し中途半端ではあるけれど、新生活のスタートを切ることになったのです。
今でも、僕は、登校するときの風景を、はっきりと思い出すことが出来ます。僕と両親と妹が住んでいる、公務員官舎は、高台にあって、登校するときは、坂道を下って学校に向かうのです。
朝、海から吹き上げてくる風を顔に受けながら、僕は道を下って行きます。風は心地良い涼しさで、季節は初夏。僕が転校してからまもなくの頃です。
眼下に広がる海は、セルロイドの板のように透明感のある、濃い青で、その海が冬には流氷で一面、真っ白な大平原になるとは、とても思えません。
坂道を下って行くに連れて、海は段々、狭まって行き、海が完全に見えなくなると、僕の通う中学は、もうすぐそこでした。
網走での中学生活は、本当に楽しいものでした。クラスのほとんどが地元の小学校出身だったにも関わらず、よその土地から来た僕を快く受け入れてくれました。
「友達になろうよ」そう言ってくれた、クラスの男の子の言葉を、僕は今も覚えています。
現在はどうだか分かりません。もう、何十年も前の話なのですから。しかし、当時の、網走の子供たちは、正確に言えば、子供から少年少女へと変わりつつあったクラスメイトたちは、素朴で屈託のない、そう、まるで、大林宣彦監督の青春映画に出てくるような、そんな中学生でした。
喘息のせいもあって体育が苦手で、あまり人付き合いも上手でない僕は、もしかしたら、今の都会の中学なら、「いじめ」に遭っても不思議ではなかったかも知れません。でも、そんな目に遭うこともなく、僕は、クラスの一員として、平凡だけれど、生き生きとした中学生活を送ることになったのです。
それは、今振り返ってみれば、僕の半生の中で、「黄金の日々」と呼ぶに相応しい、短いけれど、かけがえのない二年間でした。
一番、印象的な思い出として残っているのは、二年生の時に行った、キャンプです。夏休みの期間中、網走の近くにある、「サロマ湖」と言う、大きな湖の畔で、確か、二泊三日で行われました。
みんなで、ジンギスカンを食べたり、キャンプファイヤーの周りで、フォークダンスを踊ったり、夜、テントの中で、怪談をしたりと、僕にとって初めてのキャンプは、本当に楽しいものでした。
そのキャンプの期間中、忘れられない場面があります。
真夏とは言え、北国の天気は崩れやすく急に寒くなることも多いのですが、その日も、午後から、急に冷たい風が吹き始め、肌寒い天気となりました。キャンプの二日目でした。
キャンプ場で、みんなと炊事の準備をしていると、突然、父が現れたのです。
「ほら、ジャンパーを持ってきてやったぞ」そう言って、僕に、ジャンパーを渡してくれました。父は、当時、網走より北にある、小さな町に出張していて、家に帰る途中に寄ったとのことでした。
みんなのいる手前、恥ずかしくもあり、また、頼りがいのある父親の姿を見て貰ったことが誇らしくもあって、不思議な気持ちだったことを覚えています。
あのジャンパーは、もしかしたら、父のものだったかも知れません。あの時程、父が、父親らしく見えたことはありませんでした。
思春期の少年らしく、初恋を経験したのも、網走時代でした。相手は、同学年ではあったけど、別のクラスの、背のスラリと高い女の子でした。転校して間もない頃、運動場で、全校生徒全員が並んだとき、列を間違えて並んだ僕を、後ろから袖を引っ張って笑顔で教えてくれた、と言うのが、好きになったきっかけでした。初恋なんて、そんな他愛のないことから始まるものです。
別のクラスと言うことで、それからは、面と向かって顔を合わせることも、話をすることもなく、ただ、廊下を通る彼女の姿を、教室の中から眺めているだけでしたが、僕は、それで満足でした。今の中学生が聞いたら、あきれる程の純情振りですね。
でも、案外、今の子供たちも、初恋なんてそんなものかなあ、と、初恋時代から億万光年も隔たってしまった僕は考えたりもします。いつの時代も、人の心の本質なんて、そう変わるわけがないのですから。
結局、彼女とは、一度も言葉を交わすこともなく、僕は網走を去りました。でも、この初恋には、後日談があるのです。
後に、全く別の場所で再び巡り逢った―なら、まるで、ドラマなんだけど、現実は、そうは行きません。でも、ちょっと、衝撃的な出来事ではありました。
あれは、僕が上京して数年経った頃、まだ、大学生だった頃のことです。本屋で立ち読みしていたら、ある雑誌で、一つの記事を見付けました。
「決定！ミス・ユニバース日本代表」
その記事には、あの初恋の彼女の写真が載っていました。名前も同じ、出身地も北海道網走市で、何より、写真の顔には、中学当時の面影が残っていました。
驚きと同時に、我ながら、子供の頃から、女性を見る目は確かだったんだな、と妙な自信を持ってしまいました。でも、よく考えてみたら、彼女の容姿は当時から目立っていたはずですから、学校の男子の多くが彼女に憧れていたに違いないし、何より、彼女と話したことのない僕に、彼女の容姿以外の、本当の魅力が分かっていたわけじゃなし、僕は、単に、スタイルのいい美少女に、ちょっとしたきっかけで、初恋の幻想を抱いて楽しんでいたに過ぎないことに気が付きました。まあ、それが、「初恋」と言うものなんですけどね。
その彼女は、その後、タレントや女優になったと言う噂も聞かなかったので、たぶん、結婚して幸せなお母さんになったものと僕は想像しています。
楽しかった二年間はあっという間に過ぎ、二年の三学期、僕は、放課後、担任の先生に教室に呼び出されました。先生は僕に言いました。
「ゆうじ君は、三年になったら、元の中学に戻るそうだけど、それは、『越境入学』と言って、本当は、いけないことなんだよ」僕は、自分がしようとずっと思っていたことが、実は、不正な行為であることを、その時、初めて知ったのです。
ただ、先生は、そのことを僕に告げただけで、僕に転校を止めるようにとも、出来ないことだとも言いませんでした。しばらくして、その理由が、僕は、ぼんやりとだけど分かりました。
転校を約束させた僕の祖父は、校長職を退いてから、当時、教育委員会の要職に付いており、それなりの権力を持っていたのです。
遠い親戚の、若い教師が、うちに、菓子折を持って訪れたときのことを僕は思い出しました。
「今の辺鄙な土地で教師を続けるのは辛いのです。なにとぞ、よろしくお願いします」そう言って、祖父に頭を下げていました。翌年の人事異動で、その教師は、地方の大きな都市に転任しました。
今では、そうしたことに社会は厳しく、そのような事は通用しないと思うのですが、当時は、事情が違っていました。
僕が、「越境入学」であるにも関わらず、転校できたのは、やはり陰で、祖父の力が働いていたのではないかと思われます。
自分がしようとしていることは、いけないことなんだ。不正であり、卑怯なことなんだ。
そう、分かっていたにも関わらず、なぜ、僕は、この町の中学に戻ったのだろう？
今の中学が楽しいから転校したくない。大学のことは、網走の高校に進んでから考えればいい。勉強さえすれば、どこの高校にいたって、関係ない。僕はなぜ、そう言わなかったのだろう？
その疑問は、僕にとって、永遠の謎です。子供の頃から、勉強していい大学に進まなくてはならない、そう、洗脳されていたからなのか？中学が変わったくらいで、今の状態にそう変化がある訳じゃない、と楽観していたのか？
その頃の僕は、まだ子供で、人生と言うものの不思議さや怖さを、まだ、知らなかった。
当時の心境について、そのくらいしか、現在の僕でも、言えないのです。
いずれにしろ、少なからぬ「罪悪感」を抱えたまま、網走を後にしたのは確かでした。
クラスメイトとの別れは、あっさりしたもので、泣いた記憶も、別れのプレゼントや寄せ書きを貰った記憶も、僕にはないのです。
自分がどれほど大切なものを無造作に捨ててしまったか。そのことを思い知るのは、遠いことではありませんでした。
あの時こそが、まさに、僕の人生の「分岐点」だったのです。
この町の中学に、三年生として戻ってきて、僕の人生は一変しました。それは、「暗転」と言う言葉が、まさに、当てはまる、激変でした。
舞台の照明が消えて、再び、明るくなったとき、僕は、以前とはまるで違う舞台に、役名も与えられないまま、他の役者に混じって立っていたのです。
転校して、まず、気付いたのは、僕がいた中学一年の時とは、空気が全く違うと言うことでした。どんよりとしていると言ったらいいのか、網走の中学に流れていた、教室の中を吹き抜けて窓から外に去って行く、そんな気持ちのいい空気が、この町の中学には流れていませんでした。教室の中に、濁った重い空気が、行き場を失って澱んでいる。そんな感じがしました。
今考えると、この町の中学の、あの雰囲気は、今なら、当たり前のことだったと思います。高校受験を一年後に控えていたと言うだけでなく、クラスメイトは、皆、もう、未熟ながら、大人になりかけていたのですから。
網走の中学では、子供の世界のため必要なかった、「社交」と言うものが、この町の中学三年の社会を生きるためには、必要だったのです。
元々、対人関係が苦手だった僕は、「社交」と言うものを身に付けることなく、それまで生きてきました。しかし、それで通用したのは、網走時代まで、だったのです。
誰もが、本心を隠し、仮面を被り、生きている気がしました。身体の回りに、目に見えない、柔らかな、しかし決して破られることのない薄い膜を、バリヤーのように纏って生きているようでした。
しかし、考えてみれば、それが、人間が社会を生きる、と言うことなのです。大人になった、今の僕なら、それが、社会を生きて行く上での「知恵」なのだと知っていますが、当時の僕には、ショックでした。
一番、辛かったのは、休み時間です。誰も話しかけてこず、無論、こちらから話しかけることも出来ず、僕は、ただ、椅子に座り、ぼんやりしている振りをしながら、時間が過ぎるのを、ひたすら待っていました。「針のむしろ」まさに、そんな感じでした。
現在、僕の甥っ子は、高校を中退し、引きこもっているのですが、電話で、中学時代のことを話してくれたとき、休み時間、僕と全く同じ心境だったことが分かりました。
甥っ子は、更に、先生が、「さあ、誰かと二人、組になって」と言う瞬間が一番、嫌だったとも言っていました。
珍しく、近くの席の男子が、僕に、勉強のことで話しかけてくれたことがあります。嬉しくて、僕は、丁寧に説明してあげたのですが、その男子は、すぐに、別の席の女の子に、僕が教えたことを伝えていました。
ああ、あの女子は、僕に話しかけづらいから、親しい男子に頼んで、僕に訊いて貰ったんだな、そう思うと、本当に寂しかったです。
最初に、ボタンを掛け違えたのかなあ。今なら、冷静に、そう考えることも出来ます。
「おはよう！」「よろしく！」「また明日！」そんな簡単な挨拶を、転校してきた早い時期に、僕が口にしていたら、事態は変わっていたように思います。それが、出来ないでいるうちに、僕は、無口で人付き合いの悪い、暗い同級生と言う、レッテルを貼られてしまったわけです。一度、貼られたレッテルは、そう簡単には剥がせません。僕は、みるみるうちに、クラスで孤立して行きました。
一番問題だったのは、一年の時、一ヶ月だけクラスメイトだった仲間に、特に、仲の良かった何人かに、きちんと挨拶できなかったことです。廊下で、彼らと顔を合わせたとき、僕は、何も言えませんでした。どうして、僕が、また、この学校にいるのか、どう説明して良いか分からなかったからです。
父親が、再び、札幌に転勤になったから、そんな理由だったら、きっと言えたと思います。でも、僕は、たった一人で祖父母の家に戻ってきたのです。それも、「越境入学」と言う不正な手段を講じて。罪悪感と気恥ずかしさから、顔を伏せるようにして廊下をすれ違うしかありませんでした。
「異邦人」その言葉が、教室での僕には、ピッタリでした。夏休みが開けた、二学期以降、僕は学校に行かなくなりました。まだ、「登校拒否」と言う言葉もなかった時代です。
ただ、定期試験だけは、受けに行きました。試験のある日、登校し、黙々と試験を受けて、ただ、帰ってくるのです。それが、この町での、僕の中学生活のすべてでした。
初めて、精神科につれて行かれたのも、この中学三年の時です。学校に行かず、部屋に引きこもっているのは、精神にどこかおかしな所があるからだ、そう言われ、僕は、市内に古くからある個人病院に連れて行かれました。
「精神病院なんて行きたくない！僕はキチガイじゃない！」僕は叫びました。
「キチガイほど、そう言うもんだ」父は、そう答えました。
今考えると、ある意味では、父の方が正しかったのは、何とも、皮肉としか言いようがありません。幼い頃から、強迫症状に苦しめられていた僕は、当時すでに、立派な「強迫性障害患者」だったのですから。
精神科に行って、カウンセリングを受け、自分が「OCD」と言う心の病だと言うことを知らされ、適切な処置を受けていたら、僕の人生も、随分と違っていたものになっていたと思います。父に大いに感謝していたかも知れませんね。
ただ、これは後に述べますが、中学校時代の三年間は、強迫症状が現れておらず、僕自身が、OCDを、自分の変わった性格としか考えていなかったので、どんな名精神科医が僕を診ても、「OCD」と診断を下すことは無理だったでしょう。
僕の、初めての精神科体験は、散々なものでした。
頭に何本か電極を刺されて脳波検査をされましたが、異常なしとのこと。その後、医師が、両親に、「『電気ショック療法』を試してみますか？」と言ったのを聞いて、僕は、恐怖を覚えました。
今なら、「電気ショック療法」が、その名前ほど、ショッキングなものではないと知っていますが、当時の僕は、その名前を聞いただけで、ビビッてしまいました。
廃人になってしまうんだろうか？そんな思いで頭がいっぱいになりました。
両親は、あっさり、同意しました。医師は、僕にでは、なく、保護者である家族に話しかけていたのです。患者の気持ちより、家族が納得する治療を、と言うのが、その病院の「モットー」のようでした。
その日は、「脳波検査」だけで、「電気ショック療法」は次回に、と言うことで、病院から帰ってきたのですが、祖母が、「電気ショック療法」に猛反対してくれました。
さすが、おばあちゃん！手を合わせたい気持ちでしたが、その後、祖母は、「霊能者」を連れてきたので、科学より宗教を信じていた、と言うだけだったのですが。
祖母が連れてきた「霊能者」による、僕の「オーラの泉」が、どんなものだったかは、はっきりと覚えていません。たぶん、
「この子が苦しんでいるには、それなりの意味があるのですよ。御先祖の供養をおろそかにしていませんか？」そんな所だったんじゃないでしょうか。
もう一カ所、市立病院の精神科にも行ったのですが、そこの先生は、精神科医として、最初に行った個人病院の医師より、遙かに優れた医師でした。少なくとも、患者の僕の話をしっかりと聞いてくれたのですから。話がしやすいよう、色々、気遣ってもくれました。
「息子さんは、どこも異常じゃありませんよ」両親に、そう言ってくれました。僕には、
「君のような人間は、特攻隊には、きっとたくさん、いたと思うなあ」そう言いました。どういう意味だったのでしょう？
当時の僕は、ひたむきで純粋な少年と言う風に受け取り、満更でもない気持ちだったのですが、今考えると、思い込んだら周りが見えなくなる視野の狭い人間、あるいは、簡単に洗脳される単純な人間、そんな意味も込められていたようにも思えます。
二つの病院とも、薬を処方されることはありませんでした。いずれにしろ、この経験で、精神科医には、ピンからキリまでいる、と言うことは分かったのは、後々、役に立ちました。
カウンセリングの際、こちらから質問を投げかけて、医師の力量や精神科医としての資質を見極める、と言う、「精神科医ソムリエ」への道の、第一歩を踏み出したのですから。
「不登校」で、「引きこもり」になった僕が逃げ込んだのは、読書の世界でした。
文庫本に興味を持ったのです。それまで、「少年少女世界名作全集」などを買って貰っていたのですが、「家なき子」「小公子」「三銃士」などを読んだだけで、それほど、読書に興味はありませんでした。作文や読書感想文も、先生に褒められたことはなく、あまり、本には縁がなかったのですが、突然、世界の色んな名作を読んでみたいと思い立ったのです。やはり、人間関係に代わる、何か人間的なものを、僕は求めたのでしょう。
背伸びしたい年頃の中学三年生にとって、文字が小さく、中身がいっぱい詰まっていそうな文庫本は、どこか魅力的に思えました。
その頃、買った本を挙げてみます。
シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア」スタンダール「赤と黒」ドストエフスキー「罪と罰」ヘミングウェイ「武器よさらば」カポーティ「ティファニーで朝食を」等々。
タイトルが文学的だったり、表紙の映画の写真が魅力的だったりと、選んだ基準は、適当だったのですが、なぜか、今見ると、ストーリーの面白い、ドラマ性の強い作品であるのは、不思議な偶然に思えます。今でも、僕は、そんな小説が好きなのです。
物語の世界に没頭することが、僕の「引きこもり」の一年間の、たった一つの慰めでした。そうした点では、今の「引きこもり」の子供たちが、「ゲーム」の世界にのめり込むのと、事情は全く変わりません。
ちなみに、その頃の僕は、小学校以来の、美術の授業のせいで、絵がすっかり嫌いになっていたので、絵を描くと言うことは全くありませんでした。そうなった経緯は、また別の機会に書こうと思います。
後、この時代で、記憶に残っているのは、同級生が数人で、僕が学校に来るよう、「お見舞い」に来たことでしょうか。先生に言われて仕方なく来たのが見え見えで、お互い、何とも気まずかったのを覚えています。
勿論、担任の先生も、やって来ました。「強くなれ」そう言ってくれました。そうとしか、言えなかったろうなあ、と今なら、そう思えます。
「不登校」の生徒に、どう接したらよいかと言う、ノウハウなど、当時は全くなかったはずですから。
余談ですが、この中学三年の時の、担任の先生が別の中学にいたときの教え子と、僕は、何十年も経ってから、病院のベッドで隣り合わせになりました。
「××先生って知ってる？」
「ああ、知ってる、知ってる。俺、あの先生に習ったんだ」教え子二人が、精神科のベッドで、二人会話を交わすことになるとは、先生も夢にも思わなかったことでしょう。
登校日数が圧倒的に足りなかったにも関わらず、僕は中学を卒業することが出来ました。定期試験を受けていたのが良かったのか、祖父の中学校長時代の部下が校長だったからか、分かりません。結局は、義務教育だったからでしょう。
祖父は、何度も中学に顔を出し、僕のことを頼んでいました。かつての部下に頭を下げるのは、さぞかし、辛かったでしょう。
「わしの顔に泥を塗りおって」と僕をなじったこともありました。僕も、後になってからも、祖父があんな約束さえ僕にさせなかったら、と祖父を恨んだこともあります。でも、もう何十年も前のことなのです。祖父も、そして祖母も、とうにこの世にはいません。
今では、仕方なかったことと思っています。なにしろ、「分岐点」は、もうとっくに過ぎてしまっているのですから。
結局、僕は、この町の進学校には行かず、別な町の高校に進み、一人で下宿生活を始めました。中学の人間関係から逃げ出し、今度こそ、新しい生活を、白紙の状態から、スタートさせたかったのです。まあ、それも思ったようには行かなかったのですが…。
ここまで読んで、三年間もあったのに、なぜ、OCDが現れなかったのか、不思議に思われた方も多いでしょう。精神科を初めて訪れた件でも書きましたが、中学の三年間は、強迫症状は、僕に現れなかったのです。一体、なぜか？
僕は、こんな仮説を立ててみました。
網走での二年間は、楽しく心が満たされていたので、セロトニンが十分に出ていたから、強迫観念が起こっても、気付かないうちに、セロトニンの作用で打ち消されていた。
この町の中学での一年間は、「不登校」と言う切迫した事態のため、それに対処するために、僕の脳は、強迫観念に関係ある場所とは、べつな場所に力を注いでおり、そのため、強迫観念が起きていても、脳は僕にそれを知らせる余裕がなかった。友達が僕によく言う、「戦争になって、頭上から爆弾が降り注いでいたら、確認している余裕なんてないだろう？」つまり、そんな状態だったわけです。
これは、勿論、僕の勝手な仮説ですが、もし、そうだとしたら、OCDと言うやつは、なんて意地悪なのでしょう。
OCDのことに気が回らないほど、せっぱ詰まっているときは、
「まだまだ、自分が出る幕じゃないな」と薄ら笑いを浮かべ眺めていて、
やっと、心に少し余裕が生まれた途端、
「さあ、いよいよ俺様の出番だ」と、おもむろに出張ってくる。それが、OCDの本質のような気がします。
何だか、「いじめっ子の影のリーダー」みたいですね。子分にいじめをさせておいて、それで言いなりになっている子なら自分は手を出さず、子分が手に負えない相手となると、自分が実際に手を下す。
そんな「いじめっ子の影のリーダー」を、どう、なだめすかし、手なずけるか？
それを考えてみることは、OCDの治療と改善に役立つように思えます。
今でも、たまにですが、僕は、あの「分岐点」で別の道を選んだ自分を想像する事があります。
その僕は、網走の高校へ進み、それなりに青春を楽しみ、それなりに勉学に励んで大学に進んだでしょう。就職して結婚し子供をもうけたことと思います。僕のことだから、「見合い結婚」だったかも知れません。
OCDに時々、悩まされながらも、「自分は神経質だからな」そう思うだけで、病院に行くこともなかったのではないでしょうか。
どんな職業に就いたのかな、と考えてみると、子供好きなので、案外、祖父と同じ、教職に就いたかも知れません。
中学で、国語を教えながらも、雑談で横道に逸れることが多く、校長から、もっと、受験対策に力を入れるように、と小言を貰っているような気がします。
「いじめ」や「不登校」の問題に悩みながらも、無力な自分を嘆いているかも知れません。
家に帰れば、大きくなった子供たちを見て、一抹の寂しさを感じる、子煩悩な父親に違いありません。
そんな、別の世界に住む、ここにいる僕からすると羨ましい幸せな僕も、時には、きっと、こんなつぶやきを洩らすはずです。
「どこかに、こんな平凡ではない、別な自分がいるんじゃないだろうか？孤独でも、何かにひたむきに打ち込んでいる、もっと違う生き方をしている自分が」
年も明けて、三が日も過ぎる頃になると、毎年、必ず、こんな記事が新聞に載ります。
「捨てられた年賀状を発見 1月5日、年賀状×××通が、×県×市郊外の雪の中に捨てられているのが見付かった。警察の調べにより、×市中央郵便局のアルバイト配達員Aが、年賀状を捨てたことを認めた。Aによると、『配達する年賀状の数が多く、配るのが面倒になって捨てた』とのこと。×市中央郵便局では、捨てられていた年賀状を回収し、配達することにしている」
お正月の風物詩とも言える、このような記事を読む度に、僕は、胸が締め付けられるような思いをします。
すべての年賀状が回収されるとは限りません。雪の中に埋もれたまま、雪が解ける春には、紙くずになってしまう年賀状もあるでしょう。雪の中に放置されていたため、インクが滲んで、書かれた宛先の住所が読めなくなっており、配達することが不可能な年賀状もあるに違いありません。それは、万年筆で心を込めて手書きされたものに多いような気がします。皮肉ですね。
僕は、そんな記事を読む度に、こんなことを考えます。
内気な女子高生が、同級生の憧れの男子生徒に、勇気を出して年賀状を書いたのです。普段、あまり話せなく気持ちを伝えることが出来なくても、年賀状を出すことで、自分の思いを察してもらえるのではないか、そんな淡い期待を込めて一生懸命文面を考えました。
―明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。××君は、いつも明るくて話すと私も元気になります。あまり話さないけどね。サッカーがんばってください。怪我などしないように！
勿論、手描きのイラストも添えます。字もせいいっぱい丁寧に書きました。郵便局の年賀状専用ポストに入れるとき、小さく、心の中でお祈りもしました。どうか気持ちが伝わりますように。そして、出来たら、彼も、年賀状をくれますように。
相手が年賀状を自分に出してくれているとは思いませんが、自分の年賀状を読んだ彼が、元旦には遅れても、出してくれるのではないか、彼女は、そう考えているのです。万が一、出してくれなくても、三学期が始まったとき、
「年賀状、ありがとう。遅くなってしまうから書かなかったけど、来年は出すからね」そう言ってくれるのではないかと期待しています。とにかく、自分の好意さえ伝わればいいのです。
しかし、彼女の思いを乗せた年賀状は、雪の中に埋もれたまま、永遠の迷子になってしまったのでした。
三学期の教室で、二人が顔を合わせたとき、彼は彼女に何も言いません。普段通り、彼女にクラスメイトの一人として接するだけです。それはそうです。彼は、彼女の年賀状を読んでいないのですから。
彼女は、彼から遅れての年賀状も来ず、彼が年賀状について何も言ってくれない事実に、意気消沈します。
やはり、出さなければ良かった。私の気持ちに気付いたけど、クラスメイト以上の感情を持っていないから、何も言わないんだ。そうすることで、私に対する自分の気持ちを、彼は教えているんだ。彼女はそう考えました。自分の年賀状のことを訊いてみたいけど、そうしたら、余計、傷付くような気がして訊けません。
今まで少しは話すことも出来た彼とも全く話せなくなり、そのまま、二人は卒業し、再び、会うことはありませんでした。
しかし、実は、彼も、内気な彼女のことが密かに好きだったのです。明るく誰でも気さくに話す彼も、恋愛に関してはシャイで、その本心を、人に見せることはありませんでした。卒業までには、彼女に告白しよう、そう決めていたのですが、年が明けて以来、彼女が自分を避けているように思えて、とうとう卒業まで、告白するきっかけを掴めませんでした。
こうして、本来なら、結ばれるはずの二人は、一枚の年賀状が捨てられてしまった、それだけのことで、永久に離ればなれになってしまったのです。
こんなことを空想するのも、僕が、人と人とを繋ぐもの、特に、郵便物に対して、強いこだわりがあるからです。自分のミスで相手に届かなかったり、自分が受け取り損ねたり、あるいは、捨てられた年賀状のように、自分の知らないところでのアクシデントによって郵便物が失われたりと、そうしたことにより、人との大切な絆が断ち切られてしまうのではないか？と言う、強迫観念が、僕にはあるのです。
それは、自分の大切なものに対する強迫観念以上に、強いものと言えるかも知れません。
「OCDの基礎知識」のページでも書いたように、郵便を出すときの確認強迫が、僕にはあります。更に、郵便を受け取るときの確認、つまり、郵便受けに郵便が入っていないか、と言う確認にも、かなりの時間と精神的な疲れを要します。その、郵便を受け取るときの確認が、とてもひどかった時期があります。
それは、僕が東京で、一人暮らしをしていた頃のことです。僕は、ずっと長い間、一カ所に住んでいて、そのアパートは、僕が住み始めた当時、すでに築二十年の、モルタル塗りの二階建てのアパートでした。
六畳一間、小さな台所はあるものの、トイレは共同、風呂はなし、と言う、今の時代の学生なら、見向きもしないような、アパートです。考えてみれば、そんなアパートに、僕は、エアコンもなしで、十七年間も住んでいたのですから、まあ、辛抱したものです。
辛抱と言うより、OCDや人間関係についての悩みに追われて、引っ越しをして、新しい生活を楽しむことまで思いが及ばなかったと言うのが、正直なところだと思います。
一階、二階、合わせて、二十ほど部屋があって、僕の部屋は一階の、玄関を入ってすぐの所にありました。
玄関には、二十個の郵便受けが、四段になって、ズラリと並んでいて、それぞれ、小さな扉が付いており、鍵が掛けられるようになっていました。郵便物を受け取る時は、南京錠を外し扉を開けて、郵便物を取り出します。扉を閉めた状態で、上の方に、二センチ程の隙間があり、郵便屋さんは、その隙間に、郵便を差し入れて行くのです。
ある日のこと、二、三ヶ月前に入居してきた、二階に住んでいる夫婦者の奥さんの方が、僕に言ったのです。
「この辺りにも、悪い人がいるものよねえ。アパートの裏手に、郵便がいっぱい捨ててあったの。ゆうじさん宛のものもあったわよ」その夫婦は、ちょっとしたトラブルメイカーで、古くから住んでいる、おばさん達と喧嘩ばかりしていました。
その奥さん曰く、
「私たちは、大家さんに頼まれて、アパートの住人に怪しい人物がいないか調査するために、色んなアパートに移り住みながら、調べているの」とのこと。更に、旦那さんは、脳腫瘍のため、余命数ヶ月と言う話なのです。その割には、旦那さんは、元気そのものに見えましたが。
そんな人の言うことですから、いささか半信半疑でしたが、やはり、ショックだったことは確かです。実際に、郵便が捨てられていた現場に行ったのか、いまいち記憶がはっきりしません。もう片付けてしまった。そう言われたような気もします。でも、片付けたのなら、捨てられていた僕の郵便物を渡してくれればよさそうなものですが、受け取った記憶もありません。
とにかく、それ以来、郵便を受け取ることに神経を使い出したことは確かです。
更に、もう一つ、気になることが起きたのです。これは、僕が、自分の目で実際に確認したので、はっきりとしているのですが、ある日、アパートに帰ってきて、ふと、自分以外の郵便受けを見たら、その郵便を差し入れる部分から、僕宛の封筒の上の部分がのぞいていたのです。僕の名字がはっきりと確認できたので、そーっと抜き取ってみると、やはり、僕宛の郵便でした。郵便屋さんが間違えて入れていったのでしょう。
もし、間違って入れていったとしても、本来なら、それを受け取った人が、僕の部屋に、
「お宅宛の郵便が間違って入ってましたよ」と、持ってきてくれるはずなのですが、そのアパートは、人の出入りも多く、僕が親しくしているのは、二階に住んでいる、野良猫を可愛がっている年配の姉妹と、一階に住んでいる、僕が時折、電球を取り替えてあげる、おばあさんくらいで、あまり他の人との付き合いがなかったのです。
何しろ、質素なアパートでしたから、短期間だけ住んで、別なもっといいアパートを見付けて出て行く、そんな住人が多かったのです。
もし、間違って、僕の郵便を受け取った人が、知らない相手に渡しに行くのは面倒くさいからと、そのまま、放置したとしたら…。そして、その郵便物が、僕にとって、大切なものだったら…。
そう考えると、以前、郵便物が捨てられてあったと言うことも思い出され、僕の中で、郵便を受け取れなかったら？と言う、強迫観念が、むくむくと頭をもたげ始めてしまったのです。
それからは、郵便受けの確認儀式のため、毎日が地獄のようでした。自分の郵便受けは勿論、他の人の郵便受けから、僕宛の郵便がのぞいていないか、順番に確かめて行くのです。
人の出入りもあるので、自分の不審な行為が見付からないよう、人が玄関から入ってきたり、二階から降りてきたりしたときは、今、帰ってきて、自分の郵便受けを確かめた振りをして、自分の部屋に一度入り、人がいなくなったのを気配で確かめてから、再び、確かめに行くのです。僕の部屋が、玄関から近かったのは幸いでした。
しかし、僕の、そんな行為が誰にも気付かれないはずはなく、ある日、僕が、郵便受けを確認していると、
「下のヘンなおっさん、いつも、ひとの郵便受けをのぞいているの」そんな、女性の声が二階から聞こえてきました。二階で、同棲しているカップルの、女の方が相手の男に言っているのでした。
三十半ばで、「おっさん」と呼ばれたことも、ショックでしたが、それ以上に、
ああ、やはり、僕のしていることは、人から見ると、不審な行為以外のなにものでもないんだなあ。そう思うと、どうしようもなく切ない気持ちになりました。
現在は、僕は、一軒家に住んでいて、家族も僕の病気のことは知っているので、毎日午後八時過ぎの、郵便受け確認は、ゆっくりと落ち着いて出来ます。
この時刻に確認しておけば、その日の郵便が、郵便受けに残っていることはなく、翌朝、新聞配達員が、新聞を郵便受けに入れても、郵便が地面に落ちることもなく、新聞に挟まって、そのまま、古新聞として捨てられることもありません。
メールが主流の時代になって、事情は大分変わりましたが、それでも、僕の、郵便に対する強迫観念は、なかなか消えてくれそうもありません。
完全になくなるとしたら、それは、僕が無人島ででも暮らすようになって、人との交わりを完全に絶ったときしかないのかも知れません。
それは、豊かな人間関係をこれから築いて行こうと言う、僕の気持ちとは、正反対のことなので、ありえません。
これからも、僕は、この強迫観念と上手に付き合って行くしかないのでしょう。
入院中、一年間、同じ屋根の下で暮らし、同じご飯を食べて暮らしていると、自然と話を多くするようになって仲良くなる友人が出来てきます。
僕のような、あまり人付き合いの上手くない人間でも、そうした親しい相手が出来たのは、「精神科の閉鎖病棟」と言う、閉ざされた、人間関係の密度の濃い空間で暮らしていたことと、心の病を抱えた人間同士の連帯感、そして、やはり、どこか人並み以上に、心に繊細な部分を持った人間が多かった、そんな理由があったからだと思えます。
勿論、人の気持ちをほとんど考えない、自分勝手な人も多くいましたが、それは、一般社会も同じ事で、病院には、よく言えば、気持ちが繊細、悪く言えば、社会で生きて行くには、やや、たくましさや図太さに欠ける、そんな人たちが多かったような気がします。
精神科では、入院中親しくなった人と、退院してから、所謂「一般社会」でも、続けて親しく付き合うと言うことは、まず、ありません。
それは、僕が入院していた病院だけではないと思うのですが、「精神科」独特の暗黙のルールのようなもので、かつての患者同士が、街で、お互い会っても、軽く挨拶を交わすだけで、別れてしまうことがほとんどです。少なくとも、僕の場合はそうでした。
「良かった。退院したんだね」と僕。
「うん。どう、元気でやってる？」相手
「まあまあ、ってとこかなあ。何とかやってるよ」僕
「それじゃあ、ね」相手
「うん。それじゃ…」僕。
そんな感じです。二人きりの時は、こんな会話もしますが、相手やこちらが一人でないときには、お互いの顔に気付いても、話しかけることはありません。精神科に入院していたことは勿論、通院していることを隠している人も多いからです。
だから、ここで、これから話そうとする友人とは、病院の中だけの友人ではあったけれど、しかしながら、僕の心の中では、今も友人のままでいる、そんな人たちのことです。
僕が二度目に入院して一晩、保護室で過ごし、病室に移ったとき、H君は、すでに、病室にいました。その病室は、ナースステーションのすぐ近くにあり、八人が寝起きしている大きな病室でした。高齢の患者が多い、その病室で、当時、三十歳だったH君は、群を抜いて若かったのです。
年が近いせいもあって、と言っても、十歳ほど離れていたのですが、僕は、やがてH君と親しく話すようになりました。
H君の自宅は、病院のある、僕と同じ町にありましたが、H君は、この町から少し離れた場所にある養護施設に在籍していました。H君はごく軽い知的障害で、腰にも障害を持っており、そのせいで歩くときに片足を引き摺っていました。お父さんが、プロのマッサージ師で、よくお見舞いに来ては、彼の腰をマッサージしてあげていました。
H君と話しているうちに、なぜ、彼が、精神科にいるのかが分かりました。
「あそこには帰りたくないんだよなあ」H君は、溜息混じりに言いました。その理由は、施設で、「いじめ」を目撃したから、でした。
ある日、同じ部屋の後輩が、先輩のインスタントコーヒーを、先輩の許しを得ずに飲んだのです。その後輩は、H君より遙かに重い知的障害だと言うことでした。すると、怒った先輩は、コーヒーを飲んだ後輩の口に、インスタントコーヒーの粉を、口いっぱいに無理矢理、押し込んだそうです。同室の者も、それを手伝ったとのこと。大人しいH君は、ただ、黙ってみているしかなかったと言いました。
「あれは、ひどいよ。あんな所に、俺、帰りたくないよ」施設から家に舞い戻り、施設に帰ろうとしない彼に手を焼いた家族が、彼を、この病院に連れてきたのです。
僕が入院していた病院は、本来、診察すべき、精神病や神経症患者だけではなく、認知症の高齢者や寝たきりの老人、更に、高齢者施設で共同生活が出来ずに退所させられた人、知的障害者施設で問題を起こした者など、多くの人たちを受け入れていました。
地方の精神科には、こうした、社会生活からはみ出してしまった人たちの受け皿の役割を担っている病院も多く、僕が入院していた病院も、まさに、そんな病院の一つでした。
H君のような、心の病を抱えているわけでない人間を受け入れているのも、そうした理由からでした。
H君を見ていると、中学三年の時、学校に行きたくないと言ったせいで精神科に連れてこられた僕自身の姿と重なり、余計、彼に親近感を覚えたのかも知れません。
彼のことで印象に残っていることは、いくつもあります。
同室の寝たきりのおじいさんの、食べ終えた食器を、いつも、ナースステーション近くに置いてある、食事を運ぶ台車まで持って行ってあげていたこと。
童顔に似合わず、ヘビースモーカーで、
「タバコを止めるくらいだったら、早死にしてもいいや」いつも、そう言っては、タバコをプカプカと吸っていたこと。僕が入院していた当時は、今ほど禁煙にはうるさくなく、デイルームで、タバコが吸えたのです。
それから、週一回ある、カラオケタイムで、シャネルズの「ランナウェイ」を上手に歌っていたこと。さすが、若手です。演歌を歌う患者が、ほとんどで、しかも、井沢八郎の「ああ上野駅」東海林太郎の「野崎小唄」と言った、「超」がつくほどの懐メロが多い中では、異色の存在でした。
ちなみに、僕は、ニック・ニューサーの「サチコ」、テレサ・テンの「つぐない」、渡哲也の「くちなしの花」と言ったところが持ち歌でした。十分に懐メロですね。
ある日の回診の時に、
「先生、僕、このまま死んじゃうのかなあ…」そう泣きながら言っていたことがあります。たぶん、腰の具合が悪く、精神的にも落ち込んでいた時だったのだと思います。
「そんなことあるわけないじゃないか。先生が必ず治してあげるから」先生は、彼をそう励ましていました。
彼が弱音を吐いたのを見たのは、その時くらいで、普段は、とても明るく穏やかな青年でした。
一番、記憶に残っているのは、彼の退院が決まったときのことです。たぶん、自分なりに考え、施設に戻ることを決意したのでしょう。その時、僕は、向かいの病室に移っていたのですが、僕の病室にやってきて、
「ゆうじさん、これ、描いてくれないかな？家に帰ってからも大事にするからさ」そう言って、ジャイアンツのマスコットキャラクターの「ジャビット君」の絵が載っている雑誌を持ってきて見せたのです。僕に、「ジャビット君」を紙に模写してくれ、と言うわけです。
いい退院祝いになると思い、僕は、引き受けました。でも、それからが大変でした。
僕が、画用紙に模写をしていると、しょっちゅう、やって来て、
「わあ、すげえ。上手いなあ！」そう褒めてくれるのです。それは、とても嬉しいのですが、失敗して失望させてはいけないと、プレッシャーになって、描き上がるまでかなり緊張しました。
H君は、出来上がった絵を見て、本当に喜んでくれました。元の絵をトレースしたわけではなく、見ながら、拡大して模写した割には、その「ジャビット君」は、確かに、自分でも納得行く出来映えでした。
いよいよ、H君が退院する日、彼は、お母さんを連れて、僕の病室に別れの挨拶をしに来ました。
「この人が、ゆうじさん。色々お世話になったんだよ」そう、彼は僕をお母さんに紹介してくれたのですが、お母さんは僕を見ることもなく、
「また、家で、ぐずついたら、承知しないからね」そう、彼にきつく言っただけでした。
お母さんが一度も、病院に顔を見せたことがなく、彼自身、お父さん子だったのが、分かったような気がしました。
H君が退院してから、僕は数ヶ月を病院で過ごし、やがて、僕も退院しました。その後、数人の元入院患者さんと街で会いましたが、H君とは会ったことはありません。
あれから、七年近くが経ち、H君も、今は、中年の入り口に差し掛かっている年齢です。
退院した今も、僕は、数ヶ月に一度は、カウンセリングに病院を訪れ、先生と話していますが、H君のその後を訊ねたことはありません。
「元気にしているよ」そう答えが返ってくることが分かっているからです。たとえ、また病院に戻っていても、身体を悪くしていても、万が一、亡くなっていたとしても、そう答えるのが、精神科医の役目なのです。
患者の心に不安を与えることは、一切、話さない。それは、確かに、正しいことなのでしょう。
でも、僕は、本当に、H君は、優しい心はそのままに、たくましい「大人」になって元気に暮らしているような気がしています。僕の描いた「ジャビット君」も、きっと部屋に飾られているに違いありません。
ただ、タバコだけは、少し控えめにしていてほしいけどね。テレサ・テンの「つぐない」の歌詞じゃないけれど。
僕は、「お笑い」が大好きで、以前は、良く「お笑い番組」を観ていたのですが、最近は、ほとんど、観ることがありません。
ネットをやっているので、名前だけは知っていても、実際に、観たことがない芸人さんがいっぱいいます。
「小島よしお」も、つい最近、テレビで観ましたが、それは、「インテリ芸人」としての彼であって、まだ、その有名なネタ「そんなの関係ねえ！」と言うのは、観たことがありません。「にしおかすみこ」「鳥居みゆき」「桜塚やっくん」なども、実際に、芸をしている姿を観ていません。
このようになったのは、いつ頃からなのだろう？そう考えてみたら、「エンタの神様」辺りからのような気がします。
特に、この番組だけが嫌いというわけではないのですが、ネタをぶつ切りにして、ほとんど瞬間芸のように切り売りし、主に、若い女性の観客の笑いを取ると言う、そうした形態の番組が苦手だと言うことです。
もう一つ、嫌いなのは、「バラエティ番組」で、雛壇に並んだ、芸人さん達が、司会者のフリに素早く反応して、日常ネタのフリートークで笑いを取るのを競い合うと言う、このパターンです。
ほとんど、「反射神経」の争いのような、芸人さん達の闘いを観ていると、何だか、こちらの胃がキリキリと痛くなりそうで落ち着きません。
画面に現れる、ここが笑うポイントですよと教えてくれる、御親切な字幕や、更に御丁寧に、笑いのネタ元の解説のための画像なども付いた日には、僕たち視聴者は、笑いを理解するのが不自由な「お笑い障害者」なのかと、画面に向かって言いたくなります。
さて、なぜ、こんなことから書き始めたかと言うと、精神科に入院していた間、感じたことの一つに、「心の病」の軽い、重いと、「笑う」「ユーモアを理解する」と言うことは、大いに関係がある、そのことを、これから話そうと思うからです。
ここで言う、「笑う」の中には、人をバカにして笑う「嘲笑」は含まれていません。逆に、自分のバカさ加減をあきれて笑う「自虐的な笑い」は、その中に含まれます。
小難しく言えば、「自分を含めた色んな人間や事柄を、客観的に眺めた上で、ユーモアを持って批評する」そんな行為でしょうか。なんて、一番、「笑い」の本質から遠い、野暮天なことを書いちゃいましたね。
僕がいた病院に、お笑い芸人に限らず、何か芸を持った人達が慰問に訪れたことは一度もありません。勿論、病室の入り口に患者の氏名さえ書かれていない、そんな、プライバシー保護に厳しい精神病院のことですから、そのような事情もあるのでしょう。
でも、刑務所への慰問は珍しいことではなく、
「皆さん、ようこそ、いらっしゃいました！」
「バカ野郎！俺たちは、好きで、ここに来たんじゃねえぞ！」と言う、有名なネタがあるくらいですから、精神病院にも、誰かが、慰問に訪れても良さそうなものなのですが、そうしたことは、僕が知る限りありません。
これには、勿論、理由があるのでしょう。
「心の病」を持っていて、入院するほど重い症状の人は、笑う余裕などない、そのことが、第一の原因だと考えられます。
ただし、これは、「うつ病患者」が「うつ病」になるくらいだから、笑いに対して鈍感だとか、そんな意味では、ありません。
むしろ、うつになる、そうした気質の人の方が「笑いのセンス」は、すぐれている、僕は、そのように考えています。
それは、「お笑い芸人」の中に、実際に、心の病を抱えていたり、ぎりぎりのところで踏ん張って、暗い屈託を、笑いに転化している人たちが多いことでも分かるはずです。
逆に、所謂、「クラスの人気者」とか「ひょうきんな奴」と呼ばれている人たちの方が、実際には、「笑いのセンス」に欠けていることが多いのは、皆さん、実感する機会が多いのではないでしょうか。
病院は、季節ごとの催し物がありました。五月には、「運動会」、八月には、「七夕」、十月には、「収穫祭」、十二月には、「クリスマス会」と言った具合です。ちなみに、北海道では、「七夕」は、内地とは一月遅れの八月七日です。
ずっと、以前は、「運動会」と「旅行」を毎年、交代で行っていたと、長く入院している患者さんから聞きました。
「旅行」は、みんなを引き連れて出かけるため、人手も手間もかかるので、だいぶ前に廃止になったそうです。
その「旅行」での話ですが、ある旅館に出かけたとき、そこで、団体客を観客にした演芸があり、患者さんの団体と他から来た団体の、二つのグループを前にして、出し物が行われたそうです。
ところが、患者グループの方がさっぱり笑わないので、演じている人たちが、舞台で困り果てたと聞きました。
「M-1グランプリ」で優勝するより、精神科で、大勢の患者を相手に笑いを取ることの方が難しいかも知れない、僕も、確かにそう思います。
だからと言って、病院の中に笑いがないかというと、そんなことは決してありません。
例えば、普通の病院の内科病棟より、遙かに、笑いと活気に満ちています。
精神科のように、長く生活を送る場所では、人は、自然と、笑いを求め、生み出すように思えます。
僕の入院していた病院の閉鎖病棟は、第一病棟と第三病棟の二つに分かれていて、症状が重い患者は第一病棟、軽い患者は第三病棟にいました。
なぜ、第二病棟がないのか不思議ですが、想像するに、元はあった第二病棟が開放病棟になったせいではないかと考えられます。僕がいた病院は古い建物で、それまでにたくさんの増改築が行われていました。
開放病棟は、第一と第三の二つの病棟に挟まれた位置にありましたが、そこは、症状が軽い患者がいるのではなく、病院で将来もずっと暮らす患者さん達が住んでいる、生活の場所でした。
他の病棟が、外来に出るまで扉が二枚あるのに対して、開放病棟は一枚だけでした。以前は、部屋で煮炊きすることも許されていたそうですが、僕が入院したときには、そのようなことは出来なくなっていました。
僕がいたのは、二度の入院とも第三病棟で、最初は一階、症状が良くなると、二階の病室に移りました。ナースステーションは、一階にあり、二階に移ると、看護師さんの訪れる回数はぐっと減ります。それだけ、手がかからなくなったと言う事でしょう。
デイルームは、一階と二階に、同じ作りのものが二つあって、夜、テレビを観るとき、歌番組を観る人は一階で、プロ野球観戦をする人は二階で、と、そのような使われ方をしていました。
週三回のレクリエーションは、二階のデイルームで行われました。
二階のデイルームには、ホワイトボードが壁に掛かっていて、僕は、そこに、ホワイトボード専用のサインペンで、絵を描くのが好きでした。そのホワイトボードは、壁に掛けられてはいるものの、何にも使われていなかったのです。
朝、早くに起きると、僕は、まだ、誰もいないデイルームで、色んな絵を、ホワイトボードに描きました。写真集に載っていた、ヨーロッパの古い建物などを描くことが多かったです。
サインペンの色は、黒、赤、青の三色しかなかったので、赤茶色のレンガなどは、黒の側に赤い色を置いたりして、遠くから眺めると、それらしく見えるように工夫しました。まだ、油絵をやっていなかったのに、印象派の視覚混合の技法を取り入れていた？訳です。
楽しかったのは、医長先生や看護師さん達の似顔絵を描くことでした。
似顔絵を描いた、その横に、その人に相応しい職業を考えキャプションを付けるのが、僕流でした。
神経質な医長先生は、「上司と部下の間で板挟みになって、胃痛に悩んでいる、銀行の融資課長」
小柄だけど声が大きく元気な若い看護師さんは、「長距離の大型トラックを運転している、ガテン系の女トラック野郎」
ちょっと化粧の濃い派手目な看護師さんは、「ススキノのバーのチーママ。明るく気さくな性格だけど、なぜか男運が悪い」などなど。
みんなが起きてきて、僕の絵を観た反応を見る時が楽しみでした。
「良く似てるなあ。ゆうじさん、面白いよ」そう言って、笑ってくれる人が多かったです。
看護師さん達も、喜んでくれました。
「私をいつ描いてくれるかと待ってたの」そう言ってくれる人もいました。
みんな、二割増しくらい、美人に描いていたんですけどね。内緒だけど。
しかし、患者さんの中には、無反応だったり、こんなことしちゃ、怒られるよ、と注意する人もいました。
そうして、観察して分かったのは、僕の子供っぽい悪戯を笑ってくれる人は、病気の種類を問わず、元々、症状が軽いか、今、状態の良い人達だと言うことでした。
テレビの情報番組で、定番の「温泉レポート」をやっていたとき、レポーターが、
「この温泉では、身体の悪いところをお湯に浸けると、効果があると言われています。腰の具合の悪い人は腰を、膝の悪い人は膝をお湯の中に浸けるといいそうです」そう話したとき、
「じゃあ、僕たちは、頭をお湯に浸けなくちゃ駄目なんだな」僕がそう言うと、どっと、みんなに受けました。やった！お笑い芸人さん達の気持ちが良く分かります。
その他にも、いろんな場面で、病院には、笑いがありました。
ソフトボールをやっていて、打った途端、三塁側に走る人。カラオケで、音楽が流れ出した途端、前奏なのに、もう歌い出して、カラオケが終わる数分前に歌い終えてしまう人。そんな人たちを見て、僕たちは笑いました。
こう書くと、症状の軽い人たちが、重い人たちをバカにして笑っている。そう感じる人がいるかも知れません。
でも、違うのです。
笑う方も、自分たちが、世間で言う、「アタマのおかしな人たち」であるという自覚を持っているのです。
笑われている人と自分との間に境などなく、いつそちらに行ってもおかしくないし、また、笑われている人が、症状が改善しこちらに来ることだってある、そのことを分かった上で、屈託なく笑っているのです。
精神科での笑いとは、「共感」や「連帯感」と言ったものに裏打ちされた、そんな「笑い」でした。
病院で笑える人達とは、自分の中にも笑われる要素があることを、ちゃんと意識している人達です。自分を、第三者の醒めた目で眺めることが出来る、そんな人達なのです。
それは、何も、病院の中に限ったことではありません。
「ツービート」時代の、ビートたけしの懐かしいギャグ、
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」それを聞いて、
「悪いことも、みんなでやれば罪の意識を感じない、なんて、不謹慎だ。まねする人間がいたらどうするんだ」そう憤るか、
「人間には、確かに、多数派に流れたい、その中に入ると安心する、そんな弱い心がある。特に、日本人はその傾向が強い。自分の中にも、そんな気持ちの弱さはある」一瞬で、そう思いを巡らせ、苦笑いしてしまうか、
その感じ方の違いは、感性の違いとも言えますが、それ以上に、その人の生きてきた道のりによって培われた、人間に対する洞察力の深さが、大いに関係していると僕は思います。
「何を笑うかによって、その人が分かる」確か、ゲーテの言葉だったと思いますが、言い得て妙です。
「品格」ばやりの昨今ですが、「品格」を計るには、その人が何を笑うかで、かなり正確に計れるような気がします。
どうしても、「心の病」を抱えていると日常生活は暗くなりがちです。当然だと思います。
悲しむこと、泣くこと、そんなことの方が、多くなるのは当たり前です。
ただ、どんな暗い生活の中にも、「笑い」は、確実に存在します。人が生きている限り。
それは、人間そのものが、相当に滑稽な生き物だからでしょう。
日々の生活の中に、ささやかでも、「笑い」を見付けて行く。いつの日か、OCDに悩む自分を笑い飛ばせたら…。
OCDがもっとも怖れている「特効薬」は、実は、「患者が笑うこと」なのかも知れません。
最初、このページで、エッセイを書き始めた頃、OCDの主人公を描いた映画やドラマを紹介することが多かったのが、いつの間にか、僕自身の体験談が主になってきたようです。
体験を語ることで、自身をもう一度見つめ直し、読んでくれた人に、OCDに対処するヒントのようなものを感じ取ってもらえたら、それは勿論、意義のあることです。
しかし、今回は、初心に戻り、僕個人とは離れた話題について語ってみようと思います。と言っても、やはり、僕の興味のあることは、人間そのものと、ものを造る、創作と言うことなので、そうしたテーマになるのですが、どうぞ、お付き合い下さい。
明治時代の作家、泉鏡花を御存じの方は多いと思います。
「高野聖」「歌行燈」などの小説で知られる鏡花ですが、この人は、典型的な不潔恐怖、確認強迫で知られています。
作品の名前を、さも読んでいるかのように挙げましたが、実は、僕は、読んでいません。
読もうと思い、手に取ったのですが、この時代の作家は、まだ「文語体」の人も多く、鏡花もその一人で、文章の意味は大体分かるものの読み続けるのが苦痛で止めてしまいました。
学生時代、もっと古文を勉強しておけば良かったと悔やむのはこんな時です。
ただ、CSで放送された、「高野聖」を原作とした映画を観たことがあるので、そのあらすじは知っています。
高野山に迷い込んだ青年僧が、山中で、動物たちに囲まれて暮らしている、絶世の美女に誘惑され虜になるのですが、実は、その女性は魔性のもので、動物たちは、彼女の虜になった男達のなれの果てだと知り、ほうほうの体で、逃げ帰る。そんな内容だったと記憶しています。
現代なら、さしずめ、「ファンタジー・ホラー」と呼ばれる内容ですが、それが、三島由紀夫も惚れ込んだ完璧な美しい文章で書かれているのです。
小説家としての鏡花は知らなくても、「新派」劇の原作者としての鏡花を知っている方もいると思います。
「別れろ、切れろ、は、芸者の時に言う言葉―」この台詞、どこかで聞いたことがありませんか？
これは、彼の作品、「婦系図」を原作として作られた、お芝居の中の名台詞です。
若い学者と芸者の道ならぬ恋を描いたこの作品には、鏡花の苦い体験が反映されています。
鏡花自身も、文学の師匠である尾崎紅葉から、芸者との恋を禁じられたことがあるのです。
現代とは価値観の違う明治時代のことであり、師匠の言葉は絶対なのですから、それは仕方のないことだったと思います。
しかし、師匠の死後、鏡花は、その女性を妻にしています。一途で粘り強い、彼の一面を見る気がします。
「金色夜叉」の作者として有名な、尾崎紅葉の家に、鏡花は、書生として住み込み文学の修行に励みました。
その頃の有名な逸話が残っています。
紅葉先生の大切な原稿を預かって、ポストに投函するとき、鏡花は、投函してから、必ず、ポストの周りを三回まわって原稿が落ちていないか、確認したそうです。
当時は、今と違って、原稿をバックアップしておくと言うことも出来ず、手書きの生原稿を紛失したら、それこそ一大事ですから、鏡花の気持ちは痛いほど分かります。
また、不潔恐怖も徹底していて、畳に手をついてお辞儀をするときも、バイ菌が畳から移ってこないよう、指先だけをちょこんとついてお辞儀をしていたそうです。
その様子が、リスのようだったと見た人が書いています。可愛いですね。勿論、本人は、それどころじゃなかったとは思いますが。
刺身には火を通し―それは、もう刺身じゃない！熱燗は、お酒が沸騰するまで熱し―アルコール分が飛んでお酒じゃなくなってるぞ！いちいち、ツッコミを入れたくなるほどの徹底ぶりです。
しかし、それには、理由があって、当時、赤痢、コレラと言った伝染病が大流行し、多くの死者が出ていたのです。
そんな苦しいOCDの症状にも屈することなく、鏡花は、現代でも立派に通用する、と言うか、むしろ現代の文学が失ってしまったような、妖しく美しい物語を書き続けました。
鏡花には、縁起強迫もあったらしく、指先で、空に文字を書いた後は、必ず、バッテンを書いて、空に書いた文字を消していたそうです。
言霊の存在を、彼は信じていて、空に文字を書きっぱなしで放っておくと、後で、文字が悪さをすると信じていました。
そんな鏡花だからこそ、完璧な文章にこだわり、その小説は、今も、僕たちを魅了し続けているのでしょう。
ここまで読んで、泉鏡花という作家については分かっても、一人の人間としての彼は、どんな人物だったのだろう？皆さん、そうお思いになることでしょう。
作家としては優れていても、「奇人、変人、偏屈」として嫌われ者だったような、そんな印象を抱くかも知れません。何しろ、OCDのことなど、世間に全く知られていない時代に、生きた人だったのですから。
しかし、鏡花は、一人の人間としても、人望があり、多くの作家仲間や後輩達に慕われていたようです。
名声を得てからも、決して驕ることなく、素朴な文学青年そのままの人だったようです。
苦学して文学を学び、辛い恋を成就させたと言う体験が、彼を人として豊かに育んだのかも知れません。
彼の写真の、と言っても、イラストですが、繊細で神経質そうな顔の中に、生活人としての強さ、逞しさが垣間見えるように思うのは果たして、僕だけでしょうか。
前回、OCDに苦しみながらも、名作を残した作家として、泉鏡花について話しましたが、現在、彼の本を探すこと自体、かなり難しいようです。
昔、僕が手に取り読むのを断念した本も、「日本文学全集」の中の一冊でした。
僕が住んでいる小さな町の本屋には、「岩波文庫」を置いている店はなく、「新潮文庫」辺りに、泉鏡花の本があるのではないかと、今回、改めて探してみたのですが、「池波正太郎」「伊坂幸太郎」「石田衣良」など人気作家たちの後に、「泉鏡花」はありませんでした。
なぜか、人気作家に混じって、「いかりや長介」の自伝「だめだこりゃ」があったりして、
だめだこりゃ―と胸の中でつぶやいた次第です。
やはり、文語体と言うのがネックになっているのかも知れません。
鏡花と同じように、端正な文章で魅力的な短編を書いた、「内田百閨v「梶井基次郎」「中島敦」など、決して文豪とは言えない作家達が、文庫にちゃんとあるのですから。
今回取り上げる、奥田英朗については、そんな心配は全くありませんので、どうぞご安心を。
奥田英朗は、現在、最も精力的に活動している作家の一人で、その著書は、本屋の文庫コーナーの棚にもたくさん並んでいて、新作は、常に平積みになっています。
僕が、初めて、奥田英朗の存在を知ったのは、「野球の国」と言う、彼のスポーツエッセイを通してでした。
NHK―BS2の「週刊ブックレビュー」で、紹介されたのですが、その時は、どうと言うこともなく、その本を手にすることもありませんでした。
ほどなく、奥田英朗は、短編集「空中ブランコ」で直木賞を受賞しました。
その、インタビュー記事の中で、彼は、自分が、「強迫神経症」で精神科の診察を受けたことがあると語っていました。
「空中ブランコ」と、もう一つの短編集「イン・ザ・プール」は、その経験を元に書かれたとのこと。
興味を持った僕は、さっそく、その二冊を買い求め、すっかりはまってしまいました。
その後、人間の本質と社会生活のリアルを徹底して追求した長編「最悪」「邪魔」などを読んで、更に、彼のファンになりました。
奥田英朗が、OCDに関して、症状がどれくらいだったのか、そして、今どの程度改善しているのか僕は知りません。
ここでは、彼自身のことではなく、彼の作品、「空中ブランコ」「イン・ザ・プール」についてのみ語ることにします。
この二つの短編集の主人公は、共に、伊良部一郎と言う精神科医です。
ですから、この二つの短編集は、「伊良部一郎シリーズ」と言う、一つの連作と言っていいかと思います。
「伊良部総合病院」と言う大きな私立病院の跡取り息子の伊良部一郎は、年は、四十歳前後、でっぷりと肥った巨体の持ち主で、頬から顎の辺りは、お肉がプルンプルン。子供のような甲高い声の持ち主です。
声だけでなく中身も、ほとんど幼児のような自己チュー男で、KYなことは天下一品。
更に、マザコンで、プラモデルやコスプレが大好きな超オタクときているのですから、女性ならずとも、誰もがお近づきになりたくない人間の典型のような男性です。
更に、彼は、「注射フェチ」で、人が注射を打たれているのを見るのが大好きなのです。
一度、結婚したことはあるものの、相手は、「おかあさん」の勧めで参加した「医者が相手のお見合いパーティー」で知り合った、自称お嬢様の元キャバクラ嬢の整形美人。
お金が目当てで結婚した彼女も、伊良部の奇人変人振りに愛想を尽かして出て行きました。
「伊良部一郎シリーズ」は、そんな、摩訶不思議な精神科医の彼の元を訪れる、色んな神経症患者たちの物語です。
小説の中では、「強迫性障害」ではなく「強迫神経症」と書かれています。
それは、OCDを知らない読者がほとんどのため、「障害」と言う言葉のイメージから、OCD患者に対して読者が偏見を持たないようにとの配慮のように僕には思えます。
また、不安障害、依存症と考えられる患者のエピソードもあるので、「神経症」の方がより広い症状を表現できて好都合だからとも言えそうです。
このシリーズは、テレビドラマ化され、映画にもなりました。
「空中ブランコ」のタイトルで放映された二時間の単発ドラマは、伊良部役に、阿部寛、「イン・ザ・プール」のタイトルの映画は、伊良部を、劇団「大人計画」を主宰している、松尾スズキが演じていました。
一つ一つの小説について語るより、ドラマと映画について語る方が、より、この連作について分かってもらえる気がします。
と言うのも、このドラマと映画を語ることは、この「伊良部一郎シリーズ」のエッセンスを語ることになるからです。
まず、ドラマ版の方からお話ししましょう。僕自身、ドラマの方が気に入っています。
小説で描かれている伊良部の容姿とは、正反対とも言える阿部寛ですが、そこは、「トリック」以来、「魅力的な変人」を演じさせたら、当代きっての役者とも言える阿部寛のこと、小説とは違った伊良部一郎を見事に作り出していました。
「空中ブランコ」のタイトル通り、空中ブランコ乗りの患者のエピソードを中心として話は進んで行くのですが、実際には、伊良部一郎がいかにして、患者達の悩みを受け止め、それを改善させ、彼らに希望を見いださせて行くか、そこに焦点が当てられています。
ある日、突然、新人の団員である、相方の内田の腕に飛び移れなくなった、空中ブランコ乗りの山下公平。
その理由が、彼には分かっています。新人ではあるものの、ルックスが良くスター性のある内田が、自分を追い落とそうとして、わざと自分の手を取ろうとしないからです。
観客には、自分のミスとしか見えません。だが、内田は、自らの卑劣な行為を認めず、周囲もまた、内田の肩を持ちます。
近代的に運営されているサーカスでは、ベテランで昔気質のブランコ乗りの公平は、すでに周囲から浮き上がった存在だったのです。
彼は、次第に孤立して行きます。誰もが自分を避けているように思え、長年連れ添った妻さえも、若い内田と浮気をしているのではないかと疑心暗鬼になります。
とうとう、思いあまった彼は、「伊良部総合病院」の精神科にやって来ます。
そこにいたのは、伊良部一郎と看護師のマユミ。精神科医の常識を大きくはずれた伊良部と、妙に色っぽく、クールな看護師。この看護師、マユミは、釈由美子が演じていました。
公平の話を聞いた伊良部は驚喜します。
中身がほとんど子供の伊良部は、「サーカス」に興味津々なのです。さっそく、自分も、空中ブランコに挑戦させてもらえるよう、治療にかこつけて頼み込みます。
伊良部の毒気に圧倒された公平は、つい、OKしてしまい、さっそく、翌日、伊良部は、マユミを引き連れ、愛車のポルシェで、サーカスのテントを訪れるのですが。
やはり、物語なので、語るのはこれくらいにしましょう。
伊良部の破天荒な言動に、公平の、張り詰めていた心はしだいに解きほぐされて行きます。
やがて、自分がなぜ、相手の腕に飛び移れなくなったか、それが最後には明らかになります。
伊良部一郎は、OCDの患者にとって、
「こんな人間だったら、絶対にこの病気で苦しむことはないだろうなあ」そう思わせる人物です。
なにしろ、すべてが自分中心で、他人の目を気にせず、嫌なこと、大変なことは誰かがやってくれるもの、責任はすべて他人任せ。そんな人物なのですから。
こう書くと、何て無神経で嫌な奴だろう。そう思われるかも知れません。でも、違うのです。
世間の、無神経で図々しい人間達と伊良部一郎を大きく隔てているもの。
それは、「計算がない」と言うことです。
赤ちゃんて、なんて無神経で図々しい！そう思う人はまずいないでしょう？
あれだけ、人に世話を掛けて感謝の言葉もないというのに。
同じように、伊良部には、こうすれば自分の得になる、そうした計算が全くないのです。
お金持ちの坊ちゃんですから、お金には執着がありません。
女好きではあるものの、計算尽くで、女性を口説こうなどとさもしいことは考えません。
自分が「スケベ」であることを隠そうともしません。当然、女性から忌み嫌われるのですが、そんなこと気にしません。
あくまで、自分の欲望に彼は忠実なのです。
その姿は、まるで、おもちゃを買ってもらえない子供が駄々をこねているかのようです。
このように、とんでもない人間の伊良部一郎ですが、精神科医としては、名医かも？
そう思わせる台詞も、時折、吐きます。
彼は、典型的な確認強迫の患者にこう言います。
「気にしないようにしようと思うこと自体、もう気にしているってことなんだよねえ」
OCDの本質を突いた言葉です。
ドラマでは、空中ブランコ乗りの他に、「尖端恐怖症」に悩むヤクザも出てきました。このエピソードも中々面白かったです。
しかし、「伊良部一郎シリーズ」を通して、一番の傑作は、「義父のヅラ」ではないかというのが、僕の意見です。ドラマでは取り上げていませんでしたが。
この身も蓋もない程、単刀直入なタイトルの短編は、伊良部の大学時代の友人が患者の話です。
彼は、大学の医局に勤めているのですが、妻の父親、つまり義父が、大学の恩師で医局を仕切っている大物教授なのです。
この教授、カツラを愛用しているのですが、誰も気付いていないと思っているのは本人だけ、周りは誰もが、「ヅラ」だと知っています。勿論、教授の前では、誰もが気付かない振りをしています。
しかし、ある日、伊良部の友人は、この義父のヅラをいつか自分がはがすのではないかと言う強迫観念に取り憑かれます。
勿論、そんなことをしたら、大学での出世は勿論、家庭さえ崩壊しかねません。
しかし、そう考えれば考えるほど、
ヅラをはがしたい！ヅラをはがすのではないか？―と言う強迫観念は膨らむばかりです。
そして、ついに耐えられなくなった彼は、同級生だった伊良部の元を訪ねます。
僕は最近、アメリカのOCD治療の第一人者、リー・ベア博士の著書「妄想に取り憑かれる人々」を読んだのですが、この伊良部の友人こそ、まさに、「妄想に取り憑かれた」OCD患者の典型と言えるかも知れません。
「やってはいけないこと、言ってはいけないことを、いつか自分がしてしまうのではないか？」そんな「人の心に住む天の邪鬼」に苦しむOCD患者は、表面に現れにくいですが、たくさんいると考えられます。
そんな「天の邪鬼」を撃退するために伊良部が取った、とんでもない手段とは？
とにかく、抱腹絶倒の一編です。
OCDを笑い飛ばす、それは、こうしたことを言うのでしょう。
映画版「伊良部一郎シリーズ」の「イン・ザ・プール」は、伊良部を松尾スズキ、助手の看護師を、MAIKOと言うモデル出身の女優さんが演じていました。
阿部寛主演のドラマ版が、伊良部のキャラクターを押し出した、「伊良部一郎物語」とするなら、映画版は、伊良部を狂言回しとして、患者達に焦点を当てた作品と言えます。
患者役の出演者たちも、田辺誠一、オダギリジョー、市川美和子と中々個性的で豪華な面々です。
タイトルとなっている「イン・ザ・プール」は、プール依存症？の男の物語です。
満たされない日常から体調を壊した男が、子供の頃得意だった泳ぎに熱中することで、自信を取り戻して行きます。しかし、熱中するあまり、長いこと、プールに入らないでいると禁断症状に見舞われ、日常生活に異常をきたすようになってしまうのです。
これは、どこか、「摂食障害」などにも繋がるように思えます。
勿論、プールに同行し、子供のようにはしゃぎ回る伊良部先生が、彼を改善へと導くのですが。
この「伊良部一郎シリーズ」は、絵に描いたようなハッピーエンドではありませんが、患者が皆、微かに希望を見いだすところで終わっています。
そうしたところも、「心の病」が「治る」ということについて考えさせられるものがあります。
「義父のヅラ」とは、少し違った意味で、僕にとって、印象深いのが、「いてもたっても」と言う作品です。
タイトルからして、OCDのニュアンス、それも、確認強迫のイメージが伝わってくると思います。
主人公は、ルポライターなのですが、ある日、アパートを出てから、
自分はタバコの火をちゃんと消しただろうか？―そんな不安に襲われます。
それが、確認強迫の始まりでした。小説では、ルポライターは男性なのですが、映画では、市川美和子が演じていました。
何度も戻って確認するようになってしまい、インタビュー相手との約束の時間には遅れるわ、思い切って出かけてからも、アパートが自分の火の不始末で全焼しているイメージが頭に絶えず浮かんできたりするわで、とても仕事になりません。
やがて、彼女は、図書館で精神医学の本を調べ、自分が「強迫神経症」の中の「確認強迫」であるということを知ります。
そして、伊良部の元へとやって来るのです。
この辺りは、僕自身、本で自分の病気を正しく知った言うこともあり、物語に共感を覚えました。
確認強迫のリアルな描写と言い、奥田英朗自身の体験が一番、反映されている作品かも知れません。
奥田英朗は、作家になる前は、コピーライター、プランナーと、文章を書く仕事に従事しており、ルポライターと言う設定からも、彼自身の体験に最も近いような気がします。
外出先で、アパートが今頃燃えているのではないかと言う強迫観念が浮かぶことに耐えられず、アパートの前の煙草屋のおばさんに、私が電話を掛けたらアパートが燃えていないか教えて欲しいと頼み込み、ルポライターが不審者扱いされる場面は、確認強迫の僕にとっては、とても作り事とは思えない、リアルそのもののエピソードでした。
そんな彼女に対して伊良部が取った治療法は、突拍子がないものの、一種の「認知行動療法」とも言えるものでしたが、それも、やはり読んでのお楽しみと言うことにしておきましょう。
患者達は、皆、仕事の面では、それなりの地位におり、プライドも持っています。
しかし、それだけに、もっとがんばらなくては今の場所から引き摺り落とされるのではないか、若く才能に溢れた新人に追い抜かれるのではないか、そんな不安に怯えてもいます。
いつも、「鎧」をまとい、「ハリネズミ」のように神経を張り詰め、ライバルを威嚇しながら社会を生きています。
そんな彼らにとって、伊良部一郎は、全く別世界の人間。
そんな伊良部に触れることによって、彼らは、自分たちがいかに窮屈な生き方をしているか、そのことに自然と思い至るのです。
その結果、彼らは、以前の「普通」だった自分とは、更に、ひと味違う、新しい自分を発見することになるのです。
カウンセリングや医学理論ではなく、存在そのもので、患者をリラックスさせ、患者を縛り付けている呪縛から、彼らを解き放つ手助けをしてあげる。
それが、精神科医、伊良部一郎の真骨頂です
奥田英朗は、最もOCDとは縁遠い人間の中に、精神科医として一番大事な資質のエッセンスを注ぎ込み、伊良部一郎と言う、現実には存在し得ない、「スーパー精神科医」を作り上げたのでしょう。
OCDに悩んでいる方も、また、そうでない方も、この「伊良部一郎シリーズ」を読んでみてください。大笑いした後、思いも掛けない、人間の心の不思議さ、奥深さに触れた気がすることでしょう。
「空中ブランコ」「イン・ザ・プール」は、「文春文庫」として、それぞれ、「476円＋消費税」で売られています。連作ですので、二冊一緒に買って楽しまれることをお勧めします。
一話簡潔で読みやすい長さなので、読書が苦手という方も、ぜひ手に取ってみて下さい。
前回、奥田英朗の「伊良部一郎シリーズ」で、患者と精神科医の関係について書いていたら、ある映画のことを思い出しました。 それで、今回は、その映画のことを書いてみたいと思います。
「グッド・ウィル・ハンティング」と言う、映画を観たことがある方も多いのではないでしょうか。邦題では、タイトルの後に、「旅立ち」と言う副題が付いています。
「スカパー！」などで何回も放送され、僕も、三度ほど観ています。それだけ人気がある作品なのでしょう。
外国の映画やドラマには、しばしば、カウンセリングのシーンが出てきます。
患者が長いソファに寝そべり、子供の頃の経験を話すのを、カウンセラーが、胸の前で指を組み合わせたりしながらじっと聴いている。そんなシーンです。
競争社会のアメリカでは、仕事や人間関係に対するストレスは、日本の比ではないのでしょう。
ですから、カウンセリングを受けることに対する抵抗は日本よりずっと少なく、そうしたシーンも観客にはリアルに感じられるのだと思えます。
そのような、一般的な「カウンセラー像」とは、いささか違った心理学者が登場し、患者と体当たりのカウンセリングを重ねて行く、そんなシーンをメインとして話が進行するのが、「グッド・ウィル・ハンティング」と言う映画です。
この映画には、面白い裏話があります。
当時、大学生でまだ俳優ではなかった、マット・デイモンが、シナリオ制作の授業で書いた脚本を、親友のベン・アフレックに見せたところ好評で、更に二人で練り直し、その脚本を完成させたのだそうです。それを映画間係者に見せたところ、賞賛され、その後、紆余曲折を経て映画化に漕ぎ着けたと言うのです。
無名の新人の脚本が映画化され、それを書いた二人が出演し成功を収めたというのは、ハリウッドでもそうあることではないサクセスストーリーと言えるでしょう。
物語は、名門「マサチューセッツ工科大学」の数学の授業で、数学のノーベル賞とも呼ばれる「フィールズ賞」を受賞した、ランボー教授が、学生たちに難問を投げかけるところから始まります。
廊下の黒板に書かれた数式を証明して見せろと学生達に挑戦状を突きつけたのです。それは、教授陣ですら何日も費やしたあげく証明に成功したという難問でした。
数日後、黒板に正解が書き込まれていました。
教授は、その優秀な学生に名乗りを上げるよう促します。しかし、誰一人名乗りでる者はいません。
実は、その難問を解いたのは、数学科の学生ではありませんでした。
それを解いたのは、大学で清掃員のアルバイトをしている、ウィル・ハンテイングと言う若者だったのです。
貧しい家庭に生まれて身寄りを失い、親戚中をたらい回しにされたあげく、あばら屋に一人で暮らしているウィル。
不良仲間と毎日を無為に過ごしている、そのウィルこそ、人並み外れた優秀な頭脳を持った数学の天才でした。
そのウィルを、マット・デイモンが演じています。
ランボー教授がやっと捜し当てたウィルは、教授に反抗的でした。その才能を生かせと諭す教授が、彼には、自分を利用しようとしているように感じられたからです。
確かに、そうした一面が、教授になかったと言えば嘘になります。しかし、それ以上に、教授は、ウィルの桁外れの数学の才能に魅入られていたのです。
それは、映画「アマデウス」で、宮廷楽長のサリエリが、モーツァルトの音楽的才能に嫉妬しながらも魅せられていった様子を思い起こさせます。
暴力事件を起こして少年院に入れられることになったウィルは、ランボー教授に身元引受人になってもらうことと引き換えに、教授と共に数学を本格的に学ぶことを了承します。
難問と呼ばれてきた数学の定理を、次々と証明して行くウィル。
しかし、彼の反抗的で人を寄せ付けないその態度は変わりません。そんな彼に業を煮やした教授は、ウィルに、カウンセリングを受けるよう促します。
渋々、承知し、カウンセリングを受けるウィルでしたが、天才的な頭脳と膨大な知識の持ち主である彼にとっては、どんな権威あるカウンセラーも、からかいの対象でしかありませんでした。
何人ものカウンセラーが、彼の傲慢で挑発的な態度に匙を投げてしまいます。
ランボー教授は、最後の手段として、古くからの友人である、心理学者のショーンにウィルを引き合わせます。
ランボー教授と同じように、学者として優れた才能を持ちながら、教授とは違い出世欲を持たず、市民大学でボランティアのような講義をしているショーン。
彼は、数年前に最愛の妻を失ってから、野心はおろか生きる意欲すら失ってしまっていたのです。
この人間臭く、ユーモア精神に溢れた、しかし、妻を失った悲しみから今も立ち直れないでいるショーンを、名優、ロビン・ウィリアムズが熱演しています。
カウンセリングの初日、ショーンは、ウィルが自分をからかうに任せます。
ただ、カウンセリングの最中、ウィルが、ショーンの亡くなった妻との生活をからかったとき、ショーンは激怒します。
その怒りに触れたとき、ウィルは、ショーンもまた、自分と同じ、心に深い傷を負った人間であることに気付くのです。
カウンセリングを重ねるにつれ、二人の距離は、徐々に近付いて行きます。
患者とカウンセラーである、その前に、二人は共に、人生につまずき傷付いた人間同士だったのです。
知識が抜群で世の中すべてを見通しているかのように振る舞うウィルに、ショーンは言います。
「君は、ミケランジェロについて質問すれば、何でも答えられるだろう。彼の経歴、彼の作品について、彼がどんな性癖を持っていたか、それでさえ、すらすらと言えるだろう。だが、君は、『システィナ礼拝堂』のあの冷たく澄んだ空気を感じたことがあるか？壁の漆喰の匂いを嗅いだことがあるか？天井に描かれたあの壮大な絵をその目で見たことがあるのか？」
また、こうも言います。
「君は、戦争について語れと言えば、シェークスピアの言葉を引用して、何時間でも語れるだろう。だが、君は、戦友が自分の腕の中で息絶えて行く、その気持ちが理解できるか？どんなに呼びかけても、身体が冷たくなって行くのを見守るしかない、そんな人間の気持ちを君は分かるというのか？」ショーンには、ベトナム戦争での辛い体験があるのです。
そして、こうも語ります。
「君は、女性と寝たこともあるだろう。だが、自分が天使のように感じる女性が、朝、ベッドの横で目覚めるのを、この上ない幸福感と共に眺めたことがあるのか？そして、その女性が、病に倒れ、自分をこの世に残して去って行く、その悲しさを味わったことがあるか？」
最後に、彼は、ウィルにこう言います。
「君は確かに天才だが、私から見れば、世の中に出て行くのを怖がっている、ただの子供に過ぎない」
ランボー教授とショーンの、ウィルに対する考え方の違いも、二人の社会人としての生き方の違いが現れていて興味深いものがあります。
ランボー教授は、ショーンにこう熱っぽく語ります。
「二十世紀の初め、優秀な物理学者がきら星のように現れた。しかし、世界を変えたのは、スイスの特許局に勤める無名の若者だったんだ」正規の教育を受けていないウィルを、教授は、アインシュタインに例えているのです。
そして、こう続けます。
「もし、アインシュタインが、毎晩飲んだくれ、遊んでばかりいたら、彼の偉大な発見はなかった」
一方、ショーンは、優秀な学者でありながら孤独の中に引きこもり、「爆弾魔」となった「ユナ・ボマー」こと、テッド・カジンスキーを引き合いに出してこう反論します。
「ウィルには、自分の人生を選ぶ自由がある。誰もそれに干渉する権利はない」
ウィルとショーンの場面以外にも、僕にとって印象的なシーンがあります。
それは、ウィルの親友で、遊び仲間のチャッキーがウィルに言う台詞です。チャッキー役は、脚本を共同執筆し実生活でも友人のベン・アフレックです。
「おまえは、俺たちとは違う。神様からすぐれた頭脳を与えられたんだ。それは、言ってみれば、人生の当たりくじを引いたって事だ。そのくじを引いていながら無駄にするなんて、俺は許さない。俺の一番の望みは、ある日、おまえの家に遊びに迎えに行ったら、おまえが家にいないことなんだ」そう言って、彼は寂しさを押し隠し、ウィルに新しい世界に旅立つことを勧めるのです。
自らも、貧しい家庭に育ち、父の暴力に怯えて育ったショーンの告白に対し、ウィルも、また、幼い頃、養父から受けた虐待の数々を告白します。
ウィルが、人を求めながらも怖れ拒絶していた自分の弱さを認めることで、カウンセリングは終わりを告げます。
ウィルはこれまでの自分を受け入れることで新しい自分を見出し、旅立って行きます。そして、ショーンもまた、亡き妻との思い出に浸る生活から、新たな人生の旅へと一歩を踏み出すのです。
この映画を観ると、一見、誰にも平等な競争社会であるかのように見えるアメリカが、実際は、生まれついた環境によって人生が左右されてしまう超格差社会であることが良く分かります。
ウィルのような天才的な頭脳の持ち主か、スポーツの才能でもない限り、生まれつきの恵まれない環境を自らの力で脱出し陽の当たる場所に出ることは非常に難しいことでしょう。
「アメリカンドリーム」とは、叶えがたいと言う意味で、まさに、「ドリーム」そのものなのです。
この映画の脚本を書いた、マット・デイモン自身、中退ではあるもののハーバード大学出身なのは、どことなく皮肉です。
映画の中に、ウィルやチャッキー達が、ハーバード大学の学生の溜まり場である「バー」に、興味津々で乗り込んで行くシーンがあります。
「ハーバードのニセ学生」を気取るチャッキーを、「本物のハーバード大学生」が書物から引用しただけの知識でからかいます。
ウィルは、原典を指摘して、その学生をコテンパンにやり込めるのですが、もしかしたら、その学生は、マット・デイモン自身、あのようになりたくない、そう思っていた「学生像」なのかも知れません。
だからこそ、彼は、オリジナルの脚本を書き、その映画化にこだわったのでしょう。
すぐれた映画とは、それが、文芸大作であれ、サスペンスであれ、アクションであれ、結局は、「人間のドラマ」なのだと僕は考えています。
「苦悩を抱えた人間が、人との関わりによって救われ、新しい命を吹き込まれる」
それが、真の「人間のドラマ」とするなら、その「人間のドラマ」に「名カウンセラー」が登場するのは、決して不思議ではないでしょう。
観客が映画を見終わった後、その映画によって、新しい価値観や新しいものの見方を発見したなら、映画そのものが、「名カウンセラー」と言えるのかも知れません。
「感動！」、「号泣！」、そんな言葉がタイトルの後に付いた「テレビ番組」が、ここ数年やたらと多いと思いませんか？
これらの番組には、障害者が出演している場合も多く、主に、身体障害者や知的障害者が出演しています。
身体障害者が一番多いような気がします。次いで、知的障害者。
ただし、知的障害者の場合、「ダウン症児」などの子供であることが多く、大人の知的障害者や重度の知的障害者が出演することは、まず、ありません。
精神障害者に至っては、ゼロに近いと言ってもいいかも知れません。
精神障害者が出る番組は、大体、深夜のドキュメンタリーと相場が決まっています。
ハンディキャップを背負った人たちが、スポーツや仕事や趣味に挑戦し奮闘する姿を記録したものを、スタジオで、タレント達が見て感動したり号泣したりするのです。
大抵は、徳光さんがもらい泣きしていたり、島田紳助が、目頭を熱くしています。
時折、画面の端っこに、「抜き」で移されるタレント達は、皆一様に、目を真っ赤にして涙ぐんでいます。確かに、その涙は嘘ではないと思います。
でも、僕は、どうしても、こうした番組が好きになれません。勿論、二階の僕の部屋にあるテレビは、そうした番組にチャンネルを合わせないので目にすることはないのですが、たまに、一階のリビングに降りていったとき、母が見ているのを観てしまうことがあります。
そうしたとき、母は、必ず、「可愛そうなんだよ。頑張っているから偉いね」そう言います。
その言葉を聞く度に、やはり、母とは、人間としては真に分かり合うことはないんだなあ、改めて、僕は思うのです。
僕は、精神障害二級の認定を受けて、障害者年金を貰っています。だから、僕は、「障害者」です。
ですから、これから書くことは、障害者、その当人の感じている事として聞いて欲しいのです。
身体障害者―可愛そうな人。頑張っている人。
知的障害者―困った人。厄介で手間のかかる人。心が純粋な人。
精神障害者―怖い人。何をするか分からない不気味な人。中には、天才がいるかも。
残念ながら、社会の多くの人々が、障害者に対して抱いている「本音」は、以上のようなものではないでしょうか？
そう考えると、テレビという娯楽を主体とするメディアが、知的障害者や精神障害者ではなく、身体障害者を取り上げる理由がよく分かります。
視聴者がテレビを観ると言うことは、出演者と画面を通してではありますが、コミュニケーションを楽しむと言うことです。それには、出演者が、より多くの視聴者と、なるべく近い認識、感覚、思考を持っていることが望ましいのです。
それは、視聴者が番組に共感することを容易にし、更に、視聴率へと繋がります。
同じようなことに笑い、同じようなことに涙することで、人は連帯感を感じます。
普段それほど仲の良くない人同士でも、お互い共通して嫌いな人物の悪口だと盛り上がったりするものです。それも、連帯感のなせる業です。
身体障害者は、知能や思考形態が健常者と同じですから、同じ事に笑い、同じ事に泣き、同じ事に怒ります。
しかし、知的障害や精神障害の人たちは、テレビの一般的な観客と比べると、知能が劣っていたり、思考の方法が違うのです。
そこに、共感はありません。
世の中には、変わった人がいる。何だか得体の知れない人がいる。
そんな好奇心は抱いても、視聴者は、彼らに共感することが出来ないのです。
身体障害者が、ハンディキャップと戦いながら何かに挑戦し克服することに、多くの人が感動するのは、きっと、普段、引け目を感じているだろう、苦しく辛い思いをしているだろうと視聴者が想像する彼らが、その引け目や苦しさを乗り越え克服する姿に胸を打たれるからです。
その「感動」とは、ハンデをものともしない障害者の強い心への畏敬、ハンデを持っていることへの同情、そして、それを観ている自分が健常者であると言う優越感、その三つが入り混じった、かなり複雑な感情ではないかと僕は思っています。
そうした感情を持つことを、僕は、決して否定している訳じゃありません。
もしかしたら、障害者の方が、より差別的な見方をすることもあります。
「ああ、あれなら、僕の方が、まだ、ましだな」
僕もそう思うことがあります。OCDの僕は、心の中は、どんなに辛くても、普段、外から見られている限りは、哀れみや同情の視線を浴びることはないのですから。
スポーツに挑戦している身体障害者。これは、「二十四時間テレビ」でお馴染みですよね。
そうしたシーンを観たとき、母がよく言う、「可愛そう」な人が「頑張っている」
そうした母の感想とは、僕の感想は大分違います。
そのスポーツがよほど好きなのだから、あんなに苦労しながらでも、やっているんだろう。肉体的には、さぞ、きついだろうな。
でも、きっと、意識することなく身体の動く僕たちには感じることの出来ない達成感を覚えているに違いない。それは、ちょっと羨ましいなあ。
だけど、身体が不自由でなかったらもっとよい記録を出すことが出来るし、遙かに多くの人と競い合うことが出来るのだから、きっと悔しい思いをしているに違いない。
僕はそんな感想を抱くのです。
それから、もっと自然に、番組で放送出来ないものだろうか？そうも思います。
頑張っている姿に感動し、涙するんじゃなくて、そのハンディキャップと努力に素直に共感すること。
健常者が、これからも、ずっと長い間、障害者に、どんな手助けが出来るのか、また、健常者が障害者から何を学び感じ取れるのか、そのことをじっくり考たらいいのに。
本当に、そう思います。
しかし、それでは、高視聴率は望めないのでしょうね。
自閉症については、かなり知られるようになりました。
これは、やはり、映画「レインマン」以来、多くの映画、ドラマで、題材として取り上げられてきたせいだと思います。
しばらく前に放映されていた、草g剛主演のドラマでも、自閉症の人間の特徴を上手く表現していたと思います。
僕には、自閉症の甥っ子がいて、小さな頃から長く付き合っているので、ある程度は分かります。
自閉症がよく知られる以前、多くの人が抱いていたイメージ
―部屋に閉じこもり、一言も喋らず、人とコミュニケーションを取ることを拒否する人間。
そうした偏ったイメージが間違いであることが、世の中に、かなり浸透してきたのは嬉しいことです。
僕の甥っ子は、いつもニコニコしていて、こちらから話しかけると色んな事を話す話し好きです。
甥っ子には、自閉症特有の「オウム返し」の癖があります。
「御飯を食べるからテレビは消しなさい」妹が、そう、甥っ子に言うと、
「テレビを消さないといけないんだね？」甥はそう答えます。
「そうだよ」妹が言うと、
「テレビを消さないといけないんだよね？」また、甥が訊きます。
「そうだって！」
「消さないといけないんだ」
妹は、大体、この辺りでキレてしまいます。
でも、僕には、甥っ子の気持ちが分かるような気がするのです。
言葉を発して、それが、自分の中から外に出た途端、その言葉が、本当に自分が発して相手にしっかり伝わったか？不安になるのだと思います。
言葉が相手に伝わる前に、言葉が空中分解してしまうような、そんなイメージに、甥っ子は囚われているような気がします。
実は、僕も、甥っ子と同じように、一度、言ったことを何度も繰り返して念を押さずにはいられないことがあるのです。
家族に何かを伝えたとき、「ちゃんと伝えた！」と確認のハンコのようなものを、心の中で押さなくては不安に駆られるのです。そのハンコを押し損なったとき、僕は、何度も繰り返して念を押し、家族を呆れさせています。
そうした事を考えても、自閉症とOCDの間には、何らかの関係があるようです。
最近は、自閉症、強迫性障害、摂食障害、トゥレット症候群、アスペルガー症候群などを、関連性のある心の病の仲間として捉える考え方があり、これらを「強迫性スペクトラム障害」などと呼んでいます。
甥っ子のことを考えると、納得の行く部分もあります。
そして、最後に、「障がい者」と言う表記の問題です。
この不思議な言葉を見る度に、「やれやれ」と言う、溜息をつきたくなるような脱力感に僕は襲われます。
僕を含め、この世の多くの障害者の中で、「ああ、良かった。この表記になってから気持ちが楽になった。これからは、人から偏見の目で見られることも少なくなるに違いない」そう思う人が一人でもいるでしょうか？
これは、「障害者」の中でも、主に、精神障害者を意識して作られた新表記のように僕には、思われて仕方ありません。
何しろ、「害」と言う文字が人に与える悪いイメージが、問題だと言うのですから。
障害者で、「害を与える」と言えば、精神障害者が、その代表でしょう。
―容疑者Aは、取り調べに対し、意味不明のことを供述している。なお、Aには、精神科の通院歴があるという。
もう、お馴染みになった、新聞記事の文章です。もしかして、「コピーするだけでいいように」辞書に登録されているのではないか？そう疑いたくなるほど紋切り型のフレーズです。
そうした、精神障害者すなわち危険人物と言うイメージを煽るかの様な一方、マスコミやお役所は、人権団体からのクレームを何よりも怖れています。
環境問題と並んで福祉問題は、政治家と企業にとって、なにより「点数稼ぎ」の手段なのですから。
クリーンなイメージをアップさせるには、現在では、この二つの問題に積極的に取り組んでいる「姿勢」を、国民や消費者に見せるのが最も効果的だと言うことを、彼らは、よく知っています。
だから、人権団体―中には恐喝まがいのことをするヤクザみたいな連中も多いのですが―が文句を付ける前に、先手を打った結果、「障がい者」と言う、当の障害者の意見を全く考慮しない空疎な言葉が生まれたのでしょう。
お母さんに役所について行って、福祉係の相談窓口を見た小学生が、きっと、こう訊ねることでしょう。
「お母さん、お役所の人って、大人なのに、『害』って言う字、書けないの？」
ここしばらく、問題になっている、所謂、「言葉狩り」ですが、言葉を狩らなければならないようにしてきたのは、それを使って来た人間の心以外なにものでもないと僕は考えています。
人が、元々、何でもない、もしかしたら思いやりの心で作られた言葉を、勝手に汚してきたのではないか、僕にはそう思えるのです。
たとえば、「乞食」と言う言葉は、現在では、差別用語ですが、元々は、托鉢をするお坊さんから転じて、人に物を恵んで貰う人と言う意味になったものです。
だから、この言葉には、本来、侮蔑的な意味はないのです。
同じ意味の、「おもらいさん」と言う言葉には、優しい響きがあります。
また、「こも」、つまり、ムシロを被っている人が多かったことから、「おこもさん」と言う言い方もあります。この言葉にも、不遇な生活を送らざるを得ない人たちへの思いやりの心が感じられます。
階級意識が強かったはずの昔の方が、こうした、差別される人々への、やさしい言葉がたくさんあったように思えてなりません。
それは、たぶん、誰もが今よりずっと貧しく、社会が不平等であることを、身をもって体感していた人達が多かったからだと思います。
いつ、自分も人に物を恵んで貰うようになるかも知れない、そうした危機意識、連帯意識を持っていたから、そうした言葉が生まれた、僕はそのように想像しています。
人権が保障され平等な社会を謳うようになってから、逆に、人は皆、平等であらねばならないと言う「強迫観念」に取り憑かれるようになったように、僕には思えるのです。
平等を維持するために、見てくれだけの言葉を用いて、偽物の平等を作り上げている、それが、現代と言う時代のような気がします。
だから、「言葉狩り」が横行するのです。
本物の差別や偏見を覆い隠すために、「差別用語」は抹殺されなくてはならないのでしょう。
人は、それぞれ、生まれた環境も違えば、才能も違うし、容姿も違います。
決して、平等ではありません。スタートラインも違えば、ゴールラインも違います。
ただ、個々の人間の心の中だけは、その人間の価値観によって幸不幸の捉え方が違うので、最近、社会が勝手に決めたがっている、「勝ち組」、「負け組」と言った分け方は意味を持ちません。
更に、時代によって、基準も変わってくるはずです。
平安時代、おたふく顔が美人であったように、将来は、人間の顔の美醜も今とは違った基準になることでしょう。
今、差し歯や入れ歯の人を、誰も、障害者とは呼ばないでしょう。
未来では、腕や足がなくても、高度な技術で作られた義手や義足のおかげで、障害者ではなくなることでしょう。
しかし、それでも、差別はなくならないと思います。
自分よりわずかでも劣っている部分について、人を見下し優越感を感じることで安心感を得る、そんな人たちがいる限り。
もし、あなたが、自分と違った人、自分より劣っているように見える人に対して、差別用語を使いたくなったり、偏見を感じたりしたときは、自分の心の中をのぞいてみてください。
きっと、そこには、不安に苛まれ青ざめた、あなた自身の顔が、鏡に映っているに違いありません。
つい最近、悪夢を見ました。
黒澤明の映画「夢」風に言えば、こうでしょうか。
こんな夢を見た。
僕は、精神科に入院している。皆、僕を避けているようで、誰も口をきいてくれない。退院が間近だというのに僕はいらついている。
父がなぜか、病室にいて、ジャニーズタレントのように、バック転を決めて見せている。年齢に似合わない、父の運動神経の良さに、僕は、軽く嫉妬を感じた。確かに、父は、子供の頃、足が速く、リレーの花形選手だったと聞いたことがある。
麻生祐未そっくりな看護師さんが、父に髪を切って貰っている。楽しそうに、父と雑談などしている。僕を担当している看護師さんなのに、父の方が親しいなんて。
僕が看護師さんに話しかけても、彼女は僕を無視して父と話している。そればかりか、他の患者も、僕が話しかけても無視するのだ。
僕の怒りは爆発する。椅子を持ち上げ、みんなに投げつけて大暴れする。僕は大声で叫ぶ。
「人が話しかけたら、返事くらいするのが礼儀じゃないか！」
場面は変わって、夜。
病院のグラウンドに、患者全員が整列している。松明が焚かれて、どこか、ナチスの夜の集会のような雰囲気だ。
僕には、「退院が取り消し」になることは分かっている。退院間近だったというのに、何て馬鹿なことをしたのだろう。病院内で暴れるなんて。後悔の念で胸がいっぱいだ。
案の定、ナチスの将校の軍服らしきものを着た、ジャック・ニコルソンそっくりの男が僕の前に立った。
「これから、君には保護室に入ってもらう」男がそう冷たく言い放った途端、僕は物凄い力で後ろ手に拘束された。男は、更に続ける。
「あらかじめ通告しておくが―」
そこで、目が覚めた。じっとりと嫌な汗を掻いている。足下の布団の上では、チビがのんびりと眠っている。
ああ、夢で良かった。僕は、大きく安堵の溜息をつく。
実は、これに近い夢を、僕は今でも、時折見るのです。
それは、家にいるとき、暴れてしまって父が警察に電話を掛け、
「ああ、また、これで病院行きか。もう二度と出てこれないだろうな…」そんな後悔の念に苛まれる、そうしたパターンの夢です。
やはり、意識の底では、病院に強制的に収容されることの恐怖感は、未だに消えていないのでしょう。
最近、見た、その悪夢で、ある映画のことを思い出したので、書いてみようと思います。
僕のエッセイは、いつも、そんな思いつきから始まることが毎度のことになっていますが。
「ショーシャンクの空に」
この映画を紹介しながら、僕が、病室で想像して楽しんだ、「閉鎖病棟脱出計画」のことを話しましょう。
映画は、これから観る人のために、最後まで語れませんが、「脱出計画」は、話していいかな、そう思っています。
なぜなら、建物の造りが、僕が入院していた病院と似たものでなくては、この「閉鎖病棟脱出計画」は、成り立たないからです。
最後に、僕の「S病院の空に」を書くつもりですから、お楽しみに。
映画「ショーシャンクの空に」は、無実の罪で、不正と暴力のまかり通る刑務所に入れられた男が、二十年近い歳月を耐え抜き、脱出を図る話です。と同時に、苦しい人生を共有した者同士の友情と、人生を決してあきらめない希望の物語でもあります。
主演は、ティム・ロビンス、共演は、モーガン・フリーマン。
僕がこの映画を初めて観たのが、入院の前だったか、それとも後だったか、よく覚えていません。テレビで、二回ほど観ているのですが、その時期については、はっきりしないのです。
原作は、スティーヴン・キングの中編小説「刑務所のリタ・ヘイワース」です。
リタ・ヘイワースとは、昔のハリウッドのセクシー女優で、彼女のポスターが、主人公の刑務所の部屋に貼られていたことから、この題名が付けられています。
「刑務所のリタ・ヘイワース」は、同じく中編の「ゴールデンボーイ」と一緒に、一冊の文庫に収められていたのは覚えているのですが、「ゴールデンボーイ」の方が傑作だったので、それで満足してしまい、もう一編の「刑務所のリタ・ヘイワース」の方は、最初のページをちらりと読んだだけで止めてしまったような気がします。
映画は、妻と愛人のプロゴルファーを殺した罪で、銀行員だったアンディーが「ショーシャンク刑務所」に入って来るところから始まります。アンディーを、ティム・ロビンスが演じています。彼は酔っぱらって、妻が一緒にいる、愛人の家の前まで行ったのですが、拳銃を取り出したところで引き返し、拳銃を川に捨ててしまったのでした。
その後、妻と愛人の射殺死体が発見され、当然のごとく、彼が疑われます。
拳銃を捨ててしまったため、死体から見付かった弾丸が、彼の拳銃から発射されたものでないことを証明できなかったことが災いして、彼は無期懲役の刑を言い渡されてしまったのです。
刑務所で初めて口をきいた、「調達屋」の、レッドと、彼は親しくなります。この、血気にはやっていた若い頃、実際に殺人を犯し、無期懲役で服役している、レッドを演じているのは、モーガン・フリーマンです。
一見ひ弱なインテリに見えるが、内に不屈の闘志を秘めたアンディーと刑務所の中で孤高を保ちながらも、その沈着冷静な人柄で人望のあるレッド。
気があった二人は、刑務所の中で友情を深めて行きます。
白い刑務所。
僕は、精神科の閉鎖病棟を、密かに、そう呼んでいます。二度の入院とも、強制的に入院させられた僕にとって、閉鎖病棟は、やはり、閉じこめられている場所と言う存在でした。
特に、二回目の入院は、警察の生活保全課の手によって入院させられたので、その思いは強かったのです。
僕は、野犬狩りにあって、捕らえられた野良犬なんだ。
そんな思いがして、やり場のない怒りで、身体がわなわな震えたのを良く覚えています。
刑務所と閉鎖病棟は、労働の有る無し、をのぞいてはよく似ています。
まず、所持品の徹底検査。
他の病院ではどうか分かりませんが、僕が入院していた病院は、厳しく、髭剃り、爪切り、ハサミと言った刃物は勿論、パジャマやジャージなども、紐を使っているものは禁止。使っているものは、抜かなくてはなりません。
日常の規則も厳しく、例えば、爪を切るときは、ナースステーションに行って、爪切りを借りるのですが、借りられる時間が決まっています。それは、看護師さんが、ナースステーションに必ず詰めている昼過ぎの一時間ほどと決まっていました。
外出許可が出てからも、帰って来たときには、ナースステーションで、バッグの底まで持ち物を検査され、禁止されているものを持ち込んでいないか、チェックされます。
二回目の入院の時、正月、僕は家に外泊したのですが、病院にいて帰らない、と言うか、帰る場所のない、隣のベッドの患者さんのために、ミカンを持ち帰ったのですが、そのことで、看護師さんの一人と大揉めしました。
規則違反と言うことなのでしょうが、その患者さんは、お正月に食べるミカンを買う予約を忘れて、「正月に、ミカンも食べられないなんて…」と沈んでいたのです。
その患者さんがミカンを食べてはいけない内科的な病気を抱えているわけでなし、病室のみんながミカンを食べているのに、一人だけ食べられないなんて、そう思って、僕は、ミカンを持ち帰ったのです。
結局、前例を作って後で問題を起こしたくない、と言う、事なかれ主義だったのでしょう。
このときは、僕は、猛烈に反論し、自分の意見を押し通しました。
労働がない分、生活自体は楽な閉鎖病棟ですが、患者を不安にさせるのが、いつ出られると言う、保証がないと言うことです。つまり、刑務所なら、懲役何年と言う、出所期日が決められているのに、精神科の場合、いつ出られるかは、主治医の先生の判断と帰ってくる患者を受け入れる家族の承諾が問題となるのです。
家族がいない場合、自立してやって行けるか、その判断も、主治医の先生によって決められます。
普段の生活状態を看護師さんが細かくチェックしていて、それが、先生へと伝わり、外出、外泊、更に、長期入院している患者さんは、社会復帰プログラムを経て、退院と言うことになります。
この辺りは、刑務所の仮出所の許可とよく似ています。
映画でも、レッドは、仮出所を何度も申請し、その度に不許可にされていました。
この辺りの呼吸、すなわち、こちらが退院を求めるのではなく、主治医が退院させてもいかなと思うよう、色んな形で、さりげなく自分の改善具合をアピールする、それは、一種の心理的駆け引きとも言えます。
一回目の入院の時、僕は、そうしたことを意識して生活し、五ヶ月で退院に漕ぎ着けたのですが、それは、やはり、結果として良くありませんでした。
真剣に病気と向き合い、改善するよう心がけ、自分が退院して生活して行ける、それなりの自信を得たと感じた時、そのタイミングと、主治医の判断が一致したときに退院する、それが、本来あるべき退院の基準なのだと今は思っています。
刑務所の中での、主人公を襲う、数々の苦難、極悪非道な集団によるリンチとレイプ、鬼看守とのやり取り、悪徳所長との駆け引きなども、この映画の見所なのですが、入院経験のある僕の心に一番響いたのは、年老いた懲役囚、図書係の、ブルックスと言う老人のエピソードです。
五十年間、服役してきた彼は、ある日、突然、仮出所を許されます。しかし、彼は、わざと刑務所で事件を起こし、その仮出所を取り消して貰おうとします。
自分が塀の中にいた間に別世界になってしまっているはずの社会に出るのが、彼は怖かったのです。
案の定、スーパーマーケットの雑用係として働きながら、一人、孤独な部屋で過ごす生活に耐えられず、彼は自殺してしまいます。
自分が死んで社会から消えてしまっても世間は誰も気付きもしない。
刑務所の仲間に、そう手紙で遺書を残して。
それを読んだレッドは言います。
「終身刑とは、何十年もの時間が消えてしまうと言うことだ。最初、俺たちは、刑務所の塀を、自分を外界から隔てている邪魔者だと思っている。だが、何年も経つと、やがて、その塀が、自分を、外の社会から守ってくれていると感じるようになるんだ」
僕が入院していた病院には、十年、二十年と長期入院している患者さんがたくさんいました。一番長い人で、四十年という人がいました。
そのほとんどが、統合失調症の患者さんだったと思います。
そうした患者さんの多くは、退院することを望まず、病院で一生暮らして行こうと考えていました。
何十年と入院し、社会から遠ざかった生活をしていると、たとえ、症状が改善しても、社会に復帰しようという気力が、徐々に失われて行くのは確かだと思います。
実際に、精神病で長期入院していた人が、高齢になってから退院し、社会で一人暮らして行くことは厳しいことに違いありません。
退院した後、生活が大変で、再入院させてくれと頼んで戻って来た人もいました。
僕は、入院患者の中では、本当に恵まれていたのだと思います。週一回、面会に来てくれる家族がいて、外泊出来る家があり、OCDと言う、患者さんの中では珍しい病気でしたが、薬による副作用が、統合失調の患者さんほど大きくなく、体力も損なわれることがなかったのですから。
そんな僕でも、病院の生活に馴染むと、活力のようなものがしだいに失せて行くのを感じました。
北海道の寒い冬、外泊から、心地よい暖房の効いた病棟に帰って来て、みんなに、「お帰りなさい」そう言われると、何か、ここが自分の本当の家ではないか？そんな錯覚に陥ることもありました。
夕食後、睡眠薬を飲んだ後、眠気がゆっくりと身体を包み始めてくるのを感じながら、みんなとデイルームでテレビを観ていると、何とも言えない穏やかな気持ちになり、騒々しい外の世界が遠く感じられたことも事実です。
そうした生活が、何年も何十年も続いたら、僕も、社会に踏み出す勇気をしだいに失って行ったに違いありません。
映画の主人公、アンディーが、二十年近く、刑務所の中にいて、希望を失うことなく脱出を試みようとする気力を持ち続けられたのはなぜだろう？僕は考えます。
無実の罪による服役だから、勿論、それも理由だったに違いありません。しかし、それだけではないように思えるのです。
彼自身の本質が、自由を求める人間だったからではないか、僕には、そのように思えてなりません。
貧しく飢える自由、孤独に苛まれる自由。
そうした、不幸や不運すら、彼にとっては、居心地のいい不自由より、価値があったのではないか？そう思えるのです。
人としての尊厳。
それは、人から管理されるのではなく、自分の意志によって人生を選択すると言うことだ。彼は、そう考える人間だったのだと思います。
そして、僕も、そのように考えている人間の一人です。
僕の十代、二十代、三十代は、OCDによって奪われてしまった。
人生の前半のほとんどを、僕は、OCDと言う「刑務所」の中で過ごし、社会に放り出されたのだ。
そのように感じられ、絶望の思いに囚われるとき、僕は、よく、この「ショーシャンクの空に」を思い出します。
そして、勇気付けられるのです。
最後に、僕の空想した脱出計画を描いたショートストーリーを紹介させて貰って、この文章を終わることにします。
S病院は、僕が入院していた病院で、この短いフィクションは、映画「ショーシャンクの空に」の素晴らしいエンディングへのささやかな僕のオマージュです。
「S病院の空に」
あいつは、変わった奴だったが、俺とは、なぜかウマがあった。病室が同じだったことも一度もなかったのに。それは、相性としか言いようがない。
あいつは、変わった病気で入院してきた。あいつが変わっていたのは、その病気のせいなのか、生まれついての性格なのか、まあ、たぶん、その両方なのだろう。
俺は勝手にそう思っている。
家族もいるというのに、なぜ、あいつが、この病院を脱走して行方をくらましたのか、俺には今ひとつ分からない。
たぶん、あいつは、何より、自由に生きるのが好きだったのだろう。
あいつの脱走計画は完璧だった。四十年、この病院にいる俺だが、脱走に成功した奴を見たのは初めてだった。
今、思えば、あいつが、計画を思い付いたきっかけは、あの事件だったと思う。
あいつが風呂掃除の後、風呂に残っているのを看護師が忘れて、運動場の扉の鍵を掛けてしまい、あいつが運動場に閉じこめられた事件だ。
この病院の運動場は、第一病棟と第三病棟の真ん中に挟まれるようにしてあり、その運動場と風呂場は繋がっている。
つまり、第一と第三、二つの病棟に繋がる扉の鍵を掛けてしまえば、運動場と風呂場は、浮島のように、病院全体から切り離されてしまうのだ。
あいつが風呂に残っているのを忘れて鍵を掛けられたとき、あいつは、第一、第三、二つの病棟へ通じる扉の両方へ、大声で「開けてくれ！」そう叫んだそうだ。
しかし、声は届かなかった。しばらくして、第一病棟の患者が声に気付き、看護師に連絡し、やっとあいつは、運動場から出て来られた。
あの時に、あいつが、脱出のヒントを掴んだのは間違いない。
入浴する間、運動場の扉は何時間も鍵が開いている。
鍵を掛けるときは、入浴時間が終わったときなのだが、その時、看護師は、運動場は見ても、風呂の中までは点検しないのだ。
入浴時間が終われば、患者は、皆、運動場を通って病棟に戻っている。
その看護師の先入観こそ、あいつの狙いだったのだ。
俺たち患者は、入浴した後、風呂の掃除をする当番が決まっていて、みんなが風呂場を出た後も、風呂に残り、湯船と脱衣場の掃除をする。
当番は、三人なのだが、たまたま、あの日は、あいつ一人残って掃除をしていて、運動場に閉じこめられたって訳だ。
病院生活の退屈しのぎに、こんな話をあいつとしたことがある。
デパートが閉店した後、店内にこっそり潜んで残っていて、夜の間に、店内の品物を盗み出す泥棒の話だ。
確かに、夜、外から侵入するより、夕方、客として入店し、そのまま居残る方が、警備員に見付かる確率は低いに違いない。
あいつは、その話からも、計画のヒントを掴んだように思う。今にして、思うことだが。
あの雨と風の強い日、風呂の掃除当番は、俺とあいつと、俺の同室の奴、その三人だった。
何事も慎重なあいつにしては珍しく、脱衣場でつまずいてバケツの水をこぼした。
「雑巾で拭いておくから先に帰っていいよ」俺たちにそう言った。
あれは、わざとだったんだな。
病院中が大騒ぎになったのは、入浴時間が過ぎて夕食の時間になった時だった。
いつまで経っても、食堂に、あいつは現れず、病院中、どこを捜してもいなかったのだ。
運動場の鍵を開け、運動場の窓ガラスが割られているのを発見して、初めて、あいつが、この病院を抜け出したことを、みんなは知った。
あいつが、入浴後、病室にいないことは、同じ病室の奴は知っていたはずだが、あいつの病室は、年寄りが多く他人の行動にはあまり関心を持っていない。
看護師も病室を訪れたはずだが、トイレかデイルームにいると思って不審に思わなかったのだろう。
その頃、あいつは、自ら閉じこめられた運動場で、必死になって、窓ガラスを割ろうとしていたのだ。
病室の窓ガラスは三十センチくらいしか開かず、しかも、強化ガラスで、椅子でたたき割ろうとしても割れないくらい丈夫な代物だが、運動場のガラスは、たぶん、普通のガラスだったのではないだろうか。
何しろ、理事長がケチなこの病院で、そこまで、お金を掛けているとは思えない。
病棟のみんなへ連絡するための館内放送用のマイクすら、故障しているのに、修理もせず買い換えもしない。そんな病院なのだから。
あいつは、ナースステーションの前に設置されている、自分の金庫からも、相当な額の金を持ち出していた。長い間かけて貯めていたのだろう。
そうしたことを考えても、練りに練った計画だったようだ。
あいつは、風雨の強い日に、風呂の掃除当番に当たるチャンスを待っていたのだ。雨と風の音が、運動場のガラスを割る音を隠してくれるからだ。
病院近くのコインランドリーの洗濯槽で、脱ぎ捨てられた、濡れたジャージが見付かったのは、脱走劇の三日後のことだった。
あいつは、町中を歩いていても違和感がないよう、シャツやセーター、ズボンと言った衣類も、あの時、風呂場に持ち込んでいたのだ。
そう言えば、あの日、脱衣場の棚に、風呂敷包みが置かれていた記憶がかすかにあった。あの時は、気にも留めなかったが。
家族から、捜索願いが出て、警察が行方を追ったにも関わらず、あいつの行方は、杳として分からなかった。
脱走した日の夜、駅のホームであいつらしい男が立っているのを見たという情報が寄せられたくらいだ。
あいつは、この病院を脱走して、コインランドリーで着替え、その足で、駅に向かったのだろう。この病院から駅までは、徒歩でも、三十分もかからない。
あいつは、駅から列車に乗り、どこか遠い場所を目指したに違いない。
短い付き合いだったが、あいつは、俺にとって忘れられない、不思議な友人だった。
そして、たいした奴だった。
今の俺に言えるのは、ただ、それだけだ。
―退院、おめでとう！
この手紙を読んでいると言うことは、あんたは、退院して、僕の子供の頃の秘密基地にいるはずだ。
この洞窟のことは、病院で、さんざん話したからあんたは覚えているはずだと思って、この町を去る前に、この手紙を隠しておいた。
あんたは、それを今、読んでいると言う訳だ。
四十年間、あの病院にいたあんたが退院する決意をしたことに、僕は心から敬意を表する。
ところで、僕が、今、どこにいると思う？
南の島だよ。沖縄本島から、ずっと離れた場所にある、小さな島に僕はいる。
この島の全員、雪を見たことがないんだ。信じられるかい？日本は広いね。
僕は今、そこで、漁師として暮らしている。僕が漁師になるなんて、想像も付かなかったろう？あんたは、僕を、いつも青白い、インテリって、からかっていたからね。
今の僕を見たら、きっと驚くと思うな。真っ黒に日焼けしている上に、身体は鍛えられて、矢吹丈みたいになっているんだから。嘘じゃないって。
人は変わるんだ。二年でこれだから、これからもっと、僕は変わって行くだろう。
あの病院にいた頃、ここが最終地点だとあきらめかけたこともあった。
だけど、僕は、生来の、楽天家なんだろうね。
僕には、まだ、何か出来ることが残っている気がしてならなかったんだ。
僕の人生をお芝居に例えたら、幕が下りるにはまだ早すぎる、そんな気がして仕方なかったんだ。
だから、僕は脱走した。
僕の本当の居場所は、家ではなく、勿論、病院でもない。もしかしたら、今、いる、この島ですらないのかも知れない。
僕は、生涯、放浪者なのかも知れないね。
永遠に届かない、夜空の星を眺めながら、その星を目指して旅する旅人。
ほら、いかにも、僕が言いそうな、青臭い台詞だろう？あんたの笑う顔が見えるようだよ。
でも、それが、僕と言う人間なのだから仕方がない。あの不思議な病気も、僕の持って生まれた、そんな心の奥底までは変えられなかったようだね。
あんたが、あんたの人生という、お芝居を最後まで降りないで演じてみよう、そう思ったら、この手紙に書いてある地図の通りに僕のいる島まで来て欲しい。
少しだけど、お金も一緒に入れておいたから旅費の足しにしてくれると嬉しい。
待っているよ。
お芝居がどんな風に幕を下ろすか、二人で、最後まで楽しんで見届けようじゃないか。
あんたの友人 Y
僕には、二人の甥っ子がいて、両親と共に旭川市に住んでいます。
旭川市は、北海道第二の都市で、僕の住んでいる町から、列車で一時間と少しの場所にあり、北海道の、ほぼ中央に位置しています。
北海道を東西に横断している「函館本線」の、札幌と旭川、この大都市の、ほぼ中間に、僕が住んでいる町はあります。
何度か、このサイトで書いているように、上の甥っ子は自閉症です。
この身近な彼―仮に、Sと呼びますね―のことについて、話してみようと思います。
退院してから、ほんの短い期間ですが、僕は病院の「デイケア」に通っていました。
僕の病院の「デイケア」には、退院した高齢の患者さんが、十人ほど通っているだけで、あまり活気がなかったので、僕は、三ヶ月ほど通っただけで止めてしまいました。
統合失調症の元患者さんがほとんどのようで、薬の副作用のせいで、皆、身体がだるそうでした。眠気に襲われることも多いようで、ほとんど長いすに寝そべっているだけの人もいました。
「デイケア」に参加する際、家族親類に精神疾患の者がいるかどうか、書類に書かされました。なぜ、退院してから、今更そのようなことを、と不思議な気がしたものです。
その時は、上の甥っ子が自閉症であることと、父が、公務員を退職して民間企業に移ったとき、躁病になったくらいでした。
しかし、現在に至ってみると、心に問題を抱えている人間が、僕の周りに、たくさんいることに驚きます。
まず、先に書いたように、上の甥っ子が自閉症。父は躁病になったことがあります。
最近になって、ずっと昔に亡くなった父の母親も、躁病の時期があったことを知りました。
そして、母が、病的な潔癖症。
当時は、下の甥っ子には、現れていませんでしたが、現在では、社会不安障害と診断されています。
更に、数年前には、妹自身も、職場のストレスから、精神科に、一時通院することになり、パキシルを処方して貰っていました。
こうしてみると、やはり、精神疾患には、遺伝的な要素があることは否定できません。これは、医学的にも、データとして証明されているので、認めざるを得ません。
しかし、そんなに神経質になる必要もないと、案外、僕は気楽に考えています。
うちは、ガンの血統だから、糖尿になりやすい家系だから、そんな言葉を良く聞きますが、同じようなものでしょう。
精神疾患だからと言って、特別に「呪われた家系」だなどと気に病むのは馬鹿げたことです。
「吸血鬼の家系」とでも言うなら、話は別ですが。
僕たちは、とにかく、生を受けてこの世に生まれてきたのです。
生まれてきた環境を嘆くなら、今から、六十年以上も前、太平洋戦争中、食べるものもなく、生命の危機にさらされて生きなければならない運命で生まれてきた赤ちゃんはどうなるのでしょう？
今も、爆弾が降り注ぐ地域で、地雷を怖れて生きている子供達がいます。
また、先天的に身体に大きなハンディキャップを持って生まれてくる子供達もいるのです。
運命を嘆くより、それを受け入れ、幸せになる道を模索することの方が遙かに大事だと僕は考えます。
Sに初めて会ったときのことを、僕は、鮮明に覚えています。
Sは、三歳くらい、まだ幼稚園にも通っていない頃で、旭川の小さなアパートに、妹夫婦と三人で暮らしていました。当時まだ、下の甥っ子は生まれていませんでした。
妹の旦那さんは建設業で、内地に働きに行っていることが多く、僕が、アパートを訪れたときも、妹と二人でいました。
当時、僕の両親、すなわち甥っ子にとっての祖父母は、妹のアパートから少し離れた場所にあるマンションに住んでいて、そこに東京から数年ぶりの帰省をしたおり、僕は妹のアパートを訪ねたのです。
写真を送ってもらって、赤ちゃんの時の顔は知っていたのですが、初めて会う、僕の甥っ子Sは、本当に、めんこい子供でした。
東京で、Sの写真を、友達に見せたら「可愛いなあ。赤ちゃんモデルみたいだなあ」友達が、感嘆してそう言ったくらいで、僕は、ちょっと自慢だったのです。
僕が会った当時、すでに、Sは言葉が出るのが遅く、心配した妹が、児童相談所に相談に行っていたのですが、はっきりとしたことが分からず、妹は不安がっていました。
当時は、現在のように、自閉症というものそれ自体がほとんど知られておらず、勿論、幼児の発達障害に関する検診などもない時代でした。
初めて、二人で遊んだときのことは、昨日のことのように思い出せます。レジスターの玩具を、甥っ子は気に入っていて、僕がレジ係になり、甥っ子がお客さんになって、レジに品物を持ってやってきては、玩具の紙幣を払います。僕が適当なお釣りを上げると、喜んでまた買い物に行き、再びレジに品物を持ってきて…。
そんなことを延々と繰り返して遊びました。
同じ事を飽きることなく繰り返して遊ぶのは子供の特徴なので、僕は、その時、何とも思いませんでしたが、後になって考えると、自閉症児独特の、興味あることには徹底した集中するという特徴が、すでに現れ始めていたのかも知れません。
それまでにも、僕は、甥っ子の、ちょっと他の子供とは違った特徴を聞いていました。
とにかく、手がかからない子供だ。
妹も、母も、よくそう言っていました。
デパートやスーパーに連れて行っても、自分から、「あれが欲しい」「あれが食べたい」そう、自分の欲求を示すことが全くないのです。
「Sちゃん、あれ、食べてみる？」そう促されて初めて、食べ物を口にするのです。
子供らしい無邪気な悪戯で驚かせたのは、デパートに置いてあったマネキン人形を抱えて、持ち歩いたことがあったくらいです。
延々と同じ事を繰り返して遊ぶのは子供の特徴で、僕もまた、そのような子供っぽいところがあるので、甥っ子といつまでもレジ遊びをすることは、少しも、嫌ではありませんでした。
今思えば、自分のお気に入りの遊びにいつまでも付き合ってくれる大人は少なかったのかも知れません。だから、僕の第一印象は、甥っ子にとって、中々いいものだったような気がします。
もう一つ、幼い甥っ子の遊びの中で印象に残っているのは、本をパラパラと捲って、ページに書かれている数字にこだわっていたことです。
それは、小説のこともあり辞書のこともありました。勿論、内容が理解できるはずもなく、彼は、ページの隅っこに書かれている、何ページ目かという、数字に興味があったのです。
「ここは、何ページから何ページまであるんだね」僕に良くそう言っていました。
甥っ子は、ある章が、何ぺージから何ページまであって、どのくらいの枚数を消費しているか？そのことに興味があったようです。
これは、もう少し大きくなってからですが、信号が赤から青に変わる瞬間を見ることに興味を抱き、信号のある交差点を、ずっと追い求め、歩き続けて迷子になり、保護されたことがありました。
情緒障害ではないか？そう児童相談所から、妹が言われたのは、甥っ子が、幼稚園の頃だったと思います。しばらくしてから、自閉症と診断されました。
映画「レインマン」などで、自閉症と言う言葉と大雑把なイメージは持っていましたが、自分の甥っ子が自閉症だと聞かされて、僕には、それほどの驚きはありませんでした。
心のどこかで、僕自身、心に問題を抱えた、人と違った人間だという自覚があったので、近親者に、そうした子供が生まれたことに違和感を覚えなかったのかも知れません。
一緒に遊んだときの、気持ちが触れ合う感じで、僕は、無意識のうちに、自分と似た感覚を持った子供だなと感じていたのかも知れないと、今にして思います。
自閉症に関しては、内に閉じこもり人との接触を極端に嫌う人間、そんなイメージを、当時の人達の多くが持っていたと思います。もしかしたら、今でもそうかも知れません。
僕は、「レインマン」の主人公もまた、単なる自閉症の一例であり、数多くの個性を持った自閉症の人達がいることを知っていました。
これは、やはり、自分が、心に問題を抱える人々、つまり、僕の仲間に対して、関心が深かったせいだと思います。
だから、ニコニコと笑顔の多い甥っ子が、自閉症と診断されたことに関しては、別に驚きはしませんでした。
僕が東京にいた間は、甥っ子とは、ほとんど付き合いがなかったのですが、こちらに戻ってきてからは頻繁な付き合いが始まりました。
ちょうど、その頃、僕の両親は、祖父の看病のため、ここ岩見沢の、祖父母の家に移ってきていました。祖母はもうすでに亡くなっていて、一人娘である母が、この家の主となりました。父は公務員を退職して民間の企業に移っていたのですが、自宅から、月に何日か、地方の営業所に出張すればいいと言う仕事で、岩見沢にいても良かったのです。
妹夫婦と甥っ子たちは、空き家になった、両親が住んでいたマンションに移り住んでいました。その頃には、下の甥っ子も生まれていました。
妹たちと甥っ子たちが、岩見沢に来ることも多く、また、こちらから、旭川に遊びに行くこともありました。
妹の旦那さんの両親が早く生なっていたため、妹は、気楽に、うちにやって来ることが出来ました。
つまり、「渡る世間は鬼ばかり」の世界とは、妹は無縁だったわけです。。
その代わりに、息子達の「自閉症」と「引きこもり」と言う、厄介な鬼を相手に長く苦闘することになったのですが。
自閉症の甥っ子、Sと話すとき、僕は、穏やかな性格の「織田信長」と話しているような気がします。
織田信長という人は、言葉の少ない人で、言葉を発するときは、常に、頭の何で考え抜かれた、ポイント、エッセンスのみを言う人だったという印象が僕にはあります。
思考するときは、恐ろしいスピードで頭が回転し、周囲の雑音は消え、そうした思考の結果、得られた結論だけを言葉にします。
だから、彼の思考の途中経過を分からない人物は、面食らいます。
たとえば、敵の城を攻める作戦を部下と共に練っていたとしましょう。
「敵の城は山の頂上にあり、攻めにくい。ここは、兵糧攻め以外ありますまい」
「いや、それでは、相手の援軍が来る、時の猶予を与えてしまう、ここは、少々の犠牲を覚悟で一気に攻め落とすべきでは」侃々諤々の議論が、部下たちの間で交わされています。
信長は、黙って、部下達の激論に耳を傾けています。
そして、しばらくしてから、並んでいる部下達の端っこにいる、秀吉に向かって声を掛けます。
「言え」ただ、それだけです。
たぶん、信長の頭の中は、このように、考えが推移していたに違いありません。
―いくつも意見が出ているが、今ひとつ決め手に欠ける。さて、自分なら、どうする…。
よし、これなら、上手く行くかも知れぬ。この部下たちの中で、同じことを考えつける奴は猿以外におるまい。では、猿の口から話させてみるか―
そうして、「言え」と言う言葉が発せられるのです。
信長の思考の推移を、彼の心に寄り添うようにして読み取っていた秀吉は、即座に、自分の城攻めの作戦を語り始めます。
信長は、そのように、自分独特の思考とそのスピードについて行けない人間を遠ざけたと言います。
甥っ子は、好きなゲームのことを話していた後、他の話題に話が移り、しばらくした後で、突然、現在話している話とは無関係なことを言うことがあります。
そんな時、僕の両親や妹でさえ、面くらい、唖然として何も答えられません。
甥っ子の頭の中では、現在話している話題と同時進行で、先ほどの興味あるゲームの話題が依然として頭の中で流れていて、現在の話が、ゲームに関する話題を刺激したとき、スイッチが、突如としてゲームの話に切り替わり、ゲームのことに関して言葉を発するのです。
僕は、そのような、甥っ子の頭の中の、思考の流れがくみ取れるので、彼の質問に答えることが出来ます。
甥っ子が信長だったら、僕の父などは、役立たずの部下として、とっくに首を刎ねられていたか、追放されていたでしょう。
甥っ子は、ある事柄を他の事柄と関連づけると言うことが苦手です。
数学は得意で、かなり難しい計算もこなします。
しかし、それを生活の中で、実用として使うことは苦手です。
1000−300＝？そうした問題は、幼い頃から良くできました。
しかし、今、お小遣いを千円持っていて、三百円のケーキを買ったら、今、手元にいくら残っているか？そうした問題には答えられませんでした。
お小遣いがどういうものか？ものを買うとは？なぜ、品物の代わりにお金を渡すのか？その意味、そうしなければならない理由が理解できないからです。
そう考えると、幼い頃の彼の、レジ遊びは、「買い物ごっこ」ではなく、「遊びの儀式」のようだった気がします。
甥っ子が大きく成長したのは、高等養護学校に行ってからです。
小学校、中学校は、普通学級に通いながら、平行して、特殊学級にも通うという、そんな学校生活を送っていたのですが、高校進学と言う際に、妹夫婦は、高等養護学校に、甥っ子を進学させるという道を選びました。
甥っ子が入ったのは、旭川から少し北にある、「美深高等養護学校」と言うところでした。
ここでの生活は、厳しかったらしく、食べ物にもこだわりがあり好き嫌いが多い甥っ子には辛かったことと思います。
休みに帰省してきたとき、数キロも体重が落ちていたと妹が話していました。
うちに遊びに来たときも、トイレに行くときは、
「大便に行ってきます！」と、刑務官に向かってでも言うような口振りで話すので、ちょっと驚きました。
高等養護学校には、やはり、自閉症の生徒は少ないようで、自閉症に合った教育方法が行われたと言うことはないようです。
社会で共同生活を行って行くために、最低限のルールを徹底してたたき込まれた、そんな印象です。
でも、修学旅行での楽しそうな笑顔の写真を見ると、やはり、クラスメイトと一緒に過ごすと言う体験は、大切なことなのだと僕は思います。
現在、甥っ子は、障害者施設に、家から通い、クリーニングの仕事をしています。
おむつをたたむ、と言う、単純な作業ですが、仕事の時間は長く、休みも少ないです。
この間の連休も、二日間しか休みはありませんでした。その大切な一日を使って、うちに遊びに来てくれました。
そんな厳しい環境の中、真面目に働いている甥っ子は、伯父さんよりずっと立派な社会人です。
僕は、入院中に、何人かの知的障害の人と知り合い、中には、親しく付き合った人もいます。
知的障害者と自閉症の人間は、現在の日本では、同じような教育環境で学び、働いています。
自閉症は、知的障害でなく、発達障害と呼ばれています。
確かに、自閉症と知的障害の人達との間には、大きな隔たりがあると僕は思います。
知的障害者と僕たちは、同じ道を歩いています。
陸の上を、時には競争しながら、それぞれ、何らかの目的地を目指して歩いています。歩みの早い遅い、人それぞれ違いはありますが。
それに対して、自閉症の人達は、陸路ではなく、水の中を泳いでいるような気がするのです。
歩くのと同様、疲れますが、道を歩くのと水の中を泳ぐのとでは、疲れる身体の箇所が違います。
また、休息を取る方法も違います。
僕たちには、彼らが何を目指して泳いでいるのか容易には想像が付きません。
水に中に潜ってしまえば、姿は見えず、僕たちは不安になります。彼らもきっと同じでしょう。
でも、僕たちも彼らも、楽しく、そして時には辛い人生という時の流れを共に進んでいるのです。それだけは確かです。
彼らが水の中から仰ぎ見る、空の美しさを僕らは窺い知ることはできません。
逆に、彼らは、道の両側に建っている、たくさんの建物、人々の賑わいを知ることは難しいでしょう。
彼らが水中から陸の上に上がってくるのは容易ではありませんが、僕たちが、水際に近付き、彼らと顔を合わせ、笑顔を見せ、不器用な会話を交わすことは、十分出来ます。
そして、水の中に浸かり、その心地よい冷たさを味わうことも出来るでしょう。
人が人生を進む方法は、たくさんあるのです。歩くことだけが唯一の方法と思っていたら大間違いです。
いつかは、空を飛ぶ方法を考えつく者が現れるかも知れません。
コミュニケーションが取りにくい人がいるなあ、そう感じたときは、向こうもそう感じているのです。
こちらから近付いて行く勇気。
僕は、それをこれから身に付けて行きたい。そう思っています。
一
私の名は、ユリ。高校の一年生。北海道の、特急列車が必ず停まる、ただそれだけが取り柄の小さな町に住んでいる。
こんな小さな町に、なぜ、特急が止まるのか、幼い頃からずっと不思議だったが、おじいちゃんが教えてくれた。私が小学二年の時だ。
「この町の近くには、たくさん炭坑があったんだ」
「炭坑？」私はその聞き慣れない言葉について訊ねた。
「ユリは知らないだろうけど、昔は、石油じゃなく、石炭を燃やしてストーブを焚いていたんだよ。石炭は、大昔の木や草が倒れ、長い間に、土の中で石に変わったものなんだ」
「石が燃えるの？」
「ああ、燃えるのさ。その石炭を掘り出す場所が、この辺りにはたくさんあった。それが炭坑。炭坑から掘り出した石炭を、みんなこの町から、汽車に乗せて、遠くへ運んで行ったんだ。だから、この町は、鉄道の中心だったんだよ、昔はね」
「フーン」私は、本当は今ひとつ分からなかったけど感心した振りをした。おじいちゃんがガッカリしないように。
おじいちゃんは何でも知っていた。私は、パパもママも嫌いだけど、おじいちゃんだけは大好きだった。もう、ちびまる子ちゃんにも負けないくらい。
こんなことを訊いたこともある。小学校六年の時だ。
「宇宙の果てはどうなっているの？」
「ユリはどう思う？」訊き返す。
まず、自分で考えてみること。それで分からなかったら、調べてみること。質問は、それから。おじいちゃんがよく言っていたことだ。
「考えた。調べた。それでも、分からないんだよ」私がふくれっ面で言うと、
「そうか。うーんと昔にね。小さな固まりが、そう宇宙の卵みたいなものが大爆発を起こして宇宙は生まれたんだ。そして、今も、ドンドン外に向かって広がり続けている。だから、宇宙の果てでは、地球よりずっと年取った星たちが、物凄いスピードで外に向かって移動している。今、分かっているのはそれくらいかな」
「なるほどねえ」私は、このときも、分かった振りをした。答えてくれただけでも嬉しかったからだ。
パパやママだったら、「馬鹿なこと考えていないで」その一言で終わりだ。
ビッグバンについて、私が知ったのは、中学に入ってからだったけど、やはり、よく分からなかった。その頃には、パソコンも買って貰っていて、ネットで色んな事を調べることが出来た。
相対性理論にも興味を持ったが、色々調べても理解出来なかった。
おじいちゃんに訊ねようとも思ったが、答えられないと寂しくなる気がして止めた。
何でも知っている、おじいちゃんでいて欲しかったからだ。それに、答えられなくて、おじいちゃんがへこんでしまっても困る。中学生の私には、もう、それくらいの分別があったのだ。
つまり、もう子供の世界に住んでいる訳じゃなかったんだよね。
私が変になったのは、おじいちゃんが死んで半年程経った頃のことだ。
真夜中、高校受験の勉強をしている最中、それは突然、私を襲った。
脳溢血で、突然死んでしまったおじいちゃんのことをあれこれ考えていたら、私は急に怖くなったのだ。
―自分が生きていると言うことは、何て危なっかしいことなんだ。
そんな思いがふと浮かんだ。そして、私は、自分の手の平をまじまじと見た。
この皮膚の下には血が流れている。その血を運んでいるのは血管だ。血管に血を送り出しているのは、心臓だ。生まれたときから、いや、母親のおなかの中にいる時から動き続けている心臓。
そんなに動き続けて、おかしくならないのだろうか？
パソコンだって、しょっちゅうフリーズするし、時計だって、電池がなくなれば止まるのに。パパの車だって、時々故障する。いつ、心臓が停まっても不思議はない。
心臓だけじゃない。血管が詰まることだって…。
現に、おじいちゃんは、脳の中の血管が詰まり破裂して死んだのだ。
人間は、この世の中で一番精密な機械なのだから、故障しない方がおかしい。
人は病気になるけど、病気になるんじゃなくて、本当は、普段の方が病気で健康な時が異常なのじゃないか？
だから、病気からいつ死に至っても少しも不思議じゃないような気がする。
そう思うと、私は生きていることがたまらなく怖くなった。
死ぬことが怖いんじゃない。
いつもパパとママが喧嘩している、この家で、私には居場所がなかったし、学校でも、私は浮いた存在だったから、この世の中は嫌いだった。だから、死ぬのはちっとも怖くない。
綱渡りのように、生きているという、そのことが不安でたまらなく怖いのだ。
―いっそ、綱から落ちてしまえばずっと気が楽になるのに。
二
初夏。私が一番好きな季節なのに、また、あれが起きてしまった。
雑貨屋さんで買ってきた、指輪が入っているビニール袋を破るとき、留めていたホチキスを飛ばしてしまったのだ。
私は、お祭りの夜店で売っているような、玩具みたいな指輪やピン留めが大好きだ。
クラスメイトには、ブランド物のアクセを持っている子も多いけど、私は子供が背伸びしてお洒落を楽しむような、そんな小物が好き。たぶん、子供の頃、おじいちゃんに夜店に連れて行って貰い、買って貰った思い出があるからだろう。
「ユリには、これが似合いそうだなあ」おじいちゃんはそう言って、私によく買ってくれたっけ。
話はホチキスに戻ります。
あのホチキスが、いつか誰かの口に入るんじゃないか？そう思って不安になったのだ。
自分ならまだいい。パパかママの口に入り、胃や腸の中のどこかに引っかかり、それが原因になってガンになるんじゃないか？
馬鹿げた妄想だと分かっているんだけど、一度、その考えが浮かぶと、それは、新しい服に付いてしまった、マジックインキみたいに絶対に取れることはない。
私には、もうそれが分かっている。
私は、人殺し、それも、親を殺すことになるんだ。
もしかしたら、私は、密かに、それを望んでいるのかも知れない。パパとママが嫌いだから。
それを知った運命は、きっと、あのホチキスを、パパかママの口に入れるに違いない。悪い子の私を罰するために。
高校に入ってから、私はますます変になっていた。
ホチキスの前は、シャープペンシルの折れた芯。シャープペンシルの芯の前は、輪ゴム。
気になる物が増えて、雪山を転がり落ちる雪玉みたいに、私の不安は、どんどん膨らんでいた。
私は、自分が飛ばしたり、なくしたりした、そんな小さなものが、誰かの口に入り、その人の命を奪うのではないかと怯えるようになっていた。
小さな物は怖い。
それは、人の口から身体の中に入り込み、時限爆弾のように、あるいは、凶暴なウイルスのように潜んでいて、ある日、突然、血管を破り、あるいは、細胞をガン化させて、人の命を奪うのだ。
もしかしたら、おじいちゃんの命を奪ったのは私かも知れない。
私が床に落とした、小さな何かがおじいちゃんの口に入り、おじいちゃんの脳の中の血管を破裂させたのかも…。
私は取り返しの付かないことをしたのかも知れない。そして、これからも、し続けるのだ。
こんなことになったのも、私が悪い子だからだろう。意地悪で、心の汚い子だからだ。
親をこんなに冷たい目で見ている子供なんているだろうか？いやしない。私だけだ。
私は、パパがどうしても好きになれない。
パパは、東大を出ている。
それを話すと、「ユリのおとうさんって凄いんだねえ」最初、みんなそう言うけど、その後で、必ずちょっと不思議そうな顔をする。
私には理由が分かる。なぜなら、パパは、この小さな町で書店を営んでいるからだ。東大を出ている人がなる職業ではないとみんな思うんだろうな。同じ本を扱うのでも、大きな出版社だったら納得するんだろうけど。
でも、私は、おじいちゃんが始めた、うちの本屋が好きだ。
この田舎町にも、大手書店のチェーン店が進出してきたせいで、個人が経営する本屋は、うち一軒になってしまった。
本屋の主人をしているパパが、私は嫌いなんじゃない。
東大を出ていながら本屋の主人をしていることに引け目を感じているパパが嫌いなんだ。
パパが国家公務員の上級試験に落ちたって、私は、おじいちゃんから聞いたことがある。
法学部だったのだから、もし受かっていたら、高級官僚になって今頃それなりの地位にいたのかも知れない。
パパが、ニュース番組を見ながら、あるいは、新聞の政治欄や経済欄を見ながら、虚ろな顔で溜息をついている姿を私は何度も見ている。もしかしたら、出世して活躍している自分の同級生のことを思っているのかも知れない。
でもね、私がパパを嫌いな一番の理由は、本当はそうしたことじゃないんだ。
話がよく分からないと思うけど、ごめん。恥ずかしいけど、言っちゃうね。
私には、パパに抱いて貰ったり、肩車をして貰ったり、そんな、小さい頃の思い出がないんだ。それが、一番、寂しいんだ。だから、パパが嫌い。子供っぽい理由だよね。高校生にもなって。
でも、誰だって、あるよね、そうした思い出って。それが私にはない。
クラスのみんなは、ウザいおとうさんに触られるのなんてキモいよと言う子ばかりだけど、それは、今の話だよ。
小さい頃なら、そんなことはなかったはずだよ。きっと、キャッキャッ言って喜んでたと思うんだ。
パパは、いつも、私から離れたところにいた。ただ、静かに笑いながら私を眺めているだけ。私の思い出の中のパパはいつもそう。
今だって、私から距離を置いている。まあ、年頃の娘とベタベタ仲のいい父親も気持ち悪いけどね。
もしかして、パパは養子だから、遠慮しているのかも知れない。
ママは、祖父母の一人っ子で、東京の女子大に行ってた頃、パパと知り合って結婚したそうだ。学生結婚なんだって。
あの無口なパパから想像出来ないんだけどね。昔は、結構、情熱的だったのかなあ。
人は変わってしまうのかも知れない。私も変わるんだろうか。
変なことなんか気にしない子に。もっと素直で誰からも可愛がられる、そんな女の子に。
だと、いいけど。
三
もう限界だ。大変なことになってしまった。
私の中に、悪魔が住み着いてしまった。まるで、テレビで観た昔の映画「エクソシスト」みたいに。
私の心の中に、もう一人の私が住み着き、そいつが私に、言ってはいけないことを言わせるのだ。
今日も、もう少しで、マオを傷付けてしまうところだった。マオは、私のただ一人の親友なのに。本当に、心の綺麗な、私なんかにはもったいないくらいの友達なのに。
「私、太っているから、ローライズ、穿けないんだよね。私が穿くと、ウエストがプクッと飛び出して、お相撲さんのまわしみたいになっちゃう」そう言って、ニコニコ笑った。マオは、いつもそうしてよく笑うけど、そんな時ほど、演技しているのが私には分かっている。彼女は、自分をピエロにしてでも、周囲の人間を笑わせたり楽しませたりするのが大好きな、そんな子だ。
それなのに―
ほんと、お相撲さんだよね。マオ、絶対、穿いちゃだめだよ。
もう少しで、言葉になって口から飛び出しそうだった。あわてて、私は、その言葉を飲み込んだ。その言葉は、私ではない誰かが、私の中で喋り、私の口から飛び出ようとしたのだ。
「ユリ、どうしたの？顔が青いよ。なんか、額に汗かいてるよ」マオが心配そうに声を掛けてくれると、
あんたのせいだよ、マオ。
今度は、そんな言葉が頭に自然に浮かんだ。
「ちょっと昨日、寝不足で気分悪いんだ。ごめん、うちに帰って寝て来るね」そう言って、私は、何とか、彼女の元から離れることが出来た。
実は、そうしたことは、今日が初めてじゃない。
一番、最初は、一月ほど前の朝礼の時。
校長先生が、壇上で、最近、流行っている、硫化水素自殺について話しているときだった。
「若い人達が、いともたやすく命を絶つことが、私は悲しくてやりきれません」そう言ったとき、
じじいのあんたが死ぬのは悲しくないよね。どうせ、もうすぐ死ぬんだから。
ふと、そんな言葉が浮かんで、喉元までせり上がってきた。
私は愕然とした。いくら、話が長く、新聞の社説から、そのまま盗んできたような内容しか話さない校長でも、そんなことを私は思っていないのだ。
いくら、ひねくれ者の私でも、そこまでは思わないよ。
それからというもの、決して言ってはいけないことが、色んな場面で心の中に浮かび、私は苦しんで来た。
そして、とうとう今日、一番、大切な人を私は危うく傷付けるところだった。
私は、狂ってしまったのだろうか？
教えてください、誰か、お願い！
―まず、自分で考えなさい。それで分からなかったら、調べるんだよ。
心の中で、声が聞こえた。それは、悪魔の声じゃなかった。懐かしい声。
おじいちゃん、ありがとう。でも、考えても分からないんだよ。
―だったら、調べることだね。
私は、自分の部屋のパソコンで、ネット中を探し回った。
ネットサーフィンなんて、生易しいものじゃない。海の底深く潜行する深海潜水艇みたいに、私は、ネットの海を潜りまくった。時折、浮上しては息を吸い込み、また、潜った。
そして、明け方近くなって、ようやく、私は答えを見付けた。
強迫性障害―それが、私が見付けた答えの名前だった。
四
やっと、夏休みまで辿り着いた。
これで、一息付ける。それが私の正直な気持ちだった。私は、もう心も身体もくたくたになっていた。
とにかく、学校で、人を傷付ける心配は取り敢えずないのだ。
「家がちょっと揉めていてね。しばらく会えないんだ。ごめんね」マオには、そう言っておいた。
「うん。分かった。何かあったら、遠慮なく言ってね」ただそうとだけ言ってくれた。本当に嬉しかった。私に訊かれたくない秘密があると察してくれたのだろう。
しかし、パパとママの仲が悪いことが、こんなことで役に立つとは。
皮肉なもんだね、全く。
強迫性障害と言う病気について、夏休みに入るまでに、私はかなり調べ上げていた。物事に執着し追求すると言うことにかけては、私はかなりのものなのだ。
もっとも、そんな私の性格が、この病気になりやすい条件だと言うのだから、自慢にはならないけど。
己の敵を知れば…後、何て言ったっけ。まあ、いいか。
とにかく、敵の正体は、分かった訳だ。
でも、分かっただけではどうにもならないのが、心の病の難しいところなんだよね。
自分が実際なってみて、そのことを痛いくらい思い知らされた。
最初、私は自分一人でその敵と戦おうとした。でも、すぐにあきらめた。
ネットに書いてあった、行動療法と言うのを、自分なりにやってみたが、上手く行かなかった
考えてみれば、高校生の私が試してすぐ治るようじゃ、この病気で苦しんでいる人が、こんなにいる訳がない。
ネットを見て私は驚いてしまったんだ。
リストカット。自殺。練炭、硫化水素。うつ。パニック障害。不安障害。適応障害。そして、強迫性障害等々。
新聞で見たり、ニュースで報道されている事柄は、氷山の一角だったんだね。
その予備軍、私も仲間入りしちゃったけど、そうした人達の多さに私は圧倒されてしまっていた。
結局、私は決断した。精神科に行ってみようと。
そう決心したのは、夏休みに入る一週間ほど前のことだ。
本当のところ、精神科のお医者さんを、私はあまり信用していない。だって、人の心みたいな難しく複雑なものを、医学的な知識で、そう簡単に治せるなんて、とても思えないもの。
じゃあ、なぜ、精神科に行くかと言うと、情報が欲しいからだ。
ネットの情報じゃなく、実際に、たくさんの病気の人に接してきた人が掴んだ情報が私は欲しいのだ。
しかし、高校生の私が一人で精神科を訪れるのは、無理がある。
勇気がないんじゃない。まず、お金がいくらかかるか分からないのが不安だ。
パパやママに言えるわけがない。
「精神病になったから、精神科に行きたいの。だから、診察料ちょうだい」そんなことを言ったら、二人は腰を抜かすかも知れないな。
おじいちゃんだったら、
「ユリの頭は、中々、繊細に出来ているみたいだね」そんな風に言ってくれるような気がするけど。
私は、夏休み最初のその日、札幌に出かけた。
実は、夏休みになるのを待ち望んでいたのには訳があるのだ。ただ、学校から逃げたかっただけじゃないんだ。
「叔母さんのうちに行ってくる。もしかしたら、泊まってくるかも。その時は、連絡するから」そう母に言い残して、私は家を出た。
私には、どうしてもその人に会う必要があった。
私の叔母さん。パパの妹。私があまり信用していない、精神科医を職業にしている女性。
五
精神科のクリニックを開業している叔母さんがいるのに、なぜ、どうしてもっと早く相談しなかったか、って？
まず自分で考える。それで分からなかったら調べてみる。
そのおじいちゃんの教えを守っていたからだよ。
それに、親類の医者に相談するのは、返って勇気がいるからね。
「守秘義務」って言っても、親類縁者じゃ、あてにならないと私は思うんだ。
でも、マリエ叔母さんは、私たち家族とは、それほど親しくないし、独身で、私とどこか似たところがある。
冷めた感じの人だから、私は、秘密を話してもいいと思ったんだ。
何より、お金の心配がない。もし、診察代が足りなくても、何とかなるに違いない。
まあ、それが一番の理由だったりして。
私は、結構、よく札幌には行くんだけど、マリエ叔母さんを訪ねるのは、久し振りだ。
おじいちゃんの葬儀の後、両親と一緒にお礼方々行って以来だ。
子供の頃は、よくうちに遊びに来てくれたり、こちらから、パパと一緒に遊びに行ったりしていたのに、いつのまにか疎遠になってしまっていた。
電車に乗って、一時間で札幌駅に着き、地下鉄に乗り換えて、約二十分。
地下鉄の出口から歩いて、十分くらいの所に、叔母さんのクリニック兼住宅はあった。
「ユリちゃん、久し振りね。今日は、患者さんとして来た訳ね。どうぞ、診察室へ」
あらかじめ、電話でそのように話してあったので、叔母さんは、そう言って、私をすぐに診察室に通した。
叔母さんは、いつも、はっきりとした物言いをする人で、私は、そこが好きだった。
ママみたいに、ベタついたところがない。
北海道の初夏みたいに、そう、私の一番好きな季節みたいに、澄み切って乾いた感じのする女性だ。
中学に入った頃、私が、ちょっと照れながらそう言ったら、
―だから、お嫁に行けないの。ユリちゃんは、叔母さんを見習ったら駄目よ。
そう言われた。
こんな、大事なときに、私は何を思い出に浸ったりしてるんだろう。
「さて、話を聞きましょうか？どこから、始めてもいいわよ」そう言って、にっこり笑った。
私は、大きく一つ深呼吸してから話し始めた。私は、慌てなかった。もう、シミュレーションは十分に済ませてあったからだ。
「素人の考えだけど、私は、たぶん、強迫性障害だと思います」
予想していた以上に、言葉が次々に出てきた。
たぶん、私はずっと話したかったんだと思う。
プロである精神科医にか、自分をよく知ってくれている身近な人にか、それは分からない。
たぶん、どちらでも良かったのだろう。高校生の私が抱え込んでおくには、その秘密はあまりに重すぎたのだ。
「ユリちゃんの言うとおり、強迫性障害ね。OCDとも言うわ。もう、知っているわよね？」私は、うなずいた。
マリエ叔母さんの診断は、私が想像していた通りだった。
だから、治るんでしょうか？と言う、患者が診断を下されて最初に発するお決まりの質問を私はしなかった。
「あなたは、強迫性障害です。私の精神科医としての診療は、以上。さあ、私の部屋に行きましょう」叔母さんがそう言って、立ち上がったので私は驚いた。
「ここからは、医者と患者としてではなく、叔母さんと姪っ子としての話になるから」マリエ叔母さんは、白衣を脱ぎながらそう言った。
こんなこと、シミュレーションにはないよ。私は、一瞬、パニックになりそうになったが、辛うじて訊いた。
「どういう事ですか？私は、叔母さんの、精神科医としての意見が聞きたいんです」
「それは、もう話したわ。今度は、私が、叔母さんとして、姪っ子のあなたと話したいの。驚いたわ。思っていたよりこんなに早く、この日が来るなんて」
六
「いい、ユリちゃん。これから話すことは、兄さんから、つまり、あなたのパパからは、口止めされていることなの。でも、私は、私の一存であなたに話すわ。これは、あなたの叔母としての考えでもあるけど、それ以上に、医者として、これが、あなたへの最良の処方箋だと信じているからよ」
叔母さんは、そう話を切り出した。私は、ソファで身を堅くして聞いている。思いも掛けない展開にただ戸惑っていた。
そんな私の気持ちを見抜いたように、叔母さんは言った。
「緊張しないで。私は、あなたを赤ちゃんの頃から知っているのよ。初対面の精神科のお医者さんが話す訳じゃないの。さあ、リラックスして。あなたは、子供の頃から、どんなときにも、冷静な子だったわ。冷徹と言った方がいいかしら。ちょっと私と似てるかな」
「はい」私は思わず声に出して返事してしまった。褒められているのか、心配されているのか、よく分からない。
「まず、最初に、あなたに教えることがあるの」
「はい」
「あなたのパパも、あなたと同じ、OCDなのよ。ずっと昔から。今は、随分と良くなったけどね」一瞬、私は息が止った。声を出すことが出来なかった。ただ、頭の中を叔母さんの声が通り抜けて行く。
「あなたが生まれたとき、パパは大学生だった。あなたのママもそう。そこまでは知っているわね？」私はぼんやりとした頭のまま、反射的にうなずいた。
「あなたが、ママのおなかにいるとき、パパは、国家公務員の上級試験に受かったの」
「えっ、落ちたんじゃないんですか？」
「ううん。それは、後から、辻褄を合わせるために作られた話よ。兄さんは、頭が良かったの。良すぎるくらい。妹の私が言うのも何だけどね。だから、試験にもトップクラスの成績で受かったわ。お役所にも就職が決まっていたの」
「それがどうして、本屋さんに？」
「ユリちゃん、あなた、覚えてない？息が止まりそうになるくらい苦しかったこと。うんと小さな頃、喉がぜいぜい言って苦しかったことを」そうだ。微かに、覚えている。息が止まるかと思って、私は、布団の中でもがいていた。
なぜ、今まで、思い出さなかったんだろう？そうか、あれは、夢だ。そう思い込んでいたんだ。
「あなたは、生まれたときから重い小児喘息だった。兄さんが勤めるはずの役所は転勤が多いところでね。東京からいつどこへ異動になるか分からない。東京でも空気が汚くて、あなたの身体に悪いのに、もっと環境の悪い場所に転勤になるかも知れない」そこで、叔母さんは一息ついた。そして続けた。
「それで、兄さんは、あなたのパパは、決断をしたの。空気の綺麗な、自分の妻の実家のある北海道で暮らそうと。それが、あなたのために一番いいことだと決心したのよ」私がこれまで聞いていた話は何だったのだろう。おじいちゃんから聞かされていたあの話は。
「私のために、パパは…」
「誤解しないで、ユリちゃん。あなたのパパは、あなたのために、自分の夢をあきらめたんじゃない。自分が一番幸せになるために決断したのよ。あなたこそ、自分の一番の夢だと分かっていたから」叔母さんは話し続ける。
「そして、いい。どうか、心をしっかり持って聞いて欲しいの。あなたのママがあなたをおなかの中に宿したとき、あなたの、おじいちゃんもおばあちゃんも、あなたを生むことに反対したの。二人とももうこの世にいない、今だから言えることだけどね。その頃、パパのOCDは落ち着いていたけど、あなたの祖父母は、自分の孫が精神障害を背負って生まれてくることを怖れたの。だから、孫は望まないって」そんな、あんまりだ。おじいちゃんが、大好きだった、おじいちゃんがそんなことを言うなんて。
「パパは、おじいちゃんに言ったそうよ。僕は、誰よりも生まれてくる子を待ち望んでいます。その子を幸せにすることが、僕の夢です、って」いつの間にか頬が濡れているのに私は気付いた。
「あなたのおじいちゃんは、あなたを生むことを許す代わりに、パパに条件を突きつけたの。養子になること。自分の書店を継ぐこと。そして、あなたに、自分の病気のことを話さないこと。兄さんは、すべて受け入れたわ。何の迷いもなく」
「でも、私にはパパと遊んだ思い出がないの！そんなに私を待ち望んでくれたパパは、私を愛してなんかくれなかった！どうして？」私は泣き叫んだ。もう恥ずかしい事なんて何もありはしない。
「運命は何て意地悪なのかしらね。あなたが生まれ北海道に移り住み、喘息も良くなったその頃、兄さんに再びOCDの症状が現れたの。重度の不潔恐怖と加害強迫だった。兄さんは自分の手からバイ菌が人に移ることを怖れて、しだいに人に触れなくなった。特に、自分が一番、大切な人には。その人を汚してしまうことを兄さんは何よりも怖れたの。あなたなら、分かるわよね？」私はうなずく。マオ、ごめんね。
「兄さんが一番、大切な人、汚したくない人。それが、あなただった。自分が誰よりも愛している人に、兄さんは触れることが出来なかった。だから、あなたを遠くから見ているしかなかったのよ。心の中に、溢れるほどの愛情を抱えながら」
私の心の中で、ジグソーパズルが組み合わさって行くように、少しずつ古い忘れかけた思い出が焦点を結び始めていた。
おじいちゃんと遊んでいる私を、遠くから眺めていたパパの寂しそうな目。
「兄さんの症状が収まった頃には、もうあなたは大きくなっていた。一度、掛け違えたボタンを掛け直すのは容易なことではないわ。あなたとあなたのパパとの間には、もう超えられない溝が出来上がっていたの」泣いている私を、残して、叔母さんは立ち上がり、隣の寝室に行った。そして、すぐに戻ってきて言った。
「この写真をご覧なさい。あなたがまだ、ほんの小さな頃、兄さんに、まだ症状が出ていなかった頃に撮ったものよ」私は、叔母さんが差し出した写真を受け取った。
涙で視界がぼやけていたので、空いている方の手で拭った。まるで、幼稚園児みたい。そんなことを考えながら。
その古い写真には、三人が写っていた。パパとママ。面影はあるけれど、今とは大違い。特に、パパは。
そして、小さな私。パパの腕に抱かれて、満面の笑みで笑っている。パパは、そんな私に負けないくらいの満面の笑みだった。
私も、パパも、そしてママも、そんな笑顔をいつから忘れてしまったのだろう。その、いつからが思い出せないくらい、ずっと昔に忘れたのに違いない。
七
私は、携帯を手にして、メールを打とうとしている。
叔母さんは、夕食の材料を買いに出かけている。今夜は、叔母さんの家に泊まることになったのだ。
すき焼き、すき焼きと、口ずさみながら、叔母さんは出かけていった。真夏に、すき焼きはないと思うけど。
私は、ママにではなく、パパに、今夜、泊まることを知らせようと思った。
泊まることを知らせる他にも、書きたいことがいっぱいあるんだけど、携帯のメールでは、とても書き切れそうもない。
でも、取り敢えず、書けるだけ書こうと思った。
家に帰って、パパと顔を合わせてしまったら、言えなくなるだろうから。それが私には分かっているから。
しばらく考えて、私は、件名を「気になる私」とした。
そして、書いた。
やっぱり思った通り、上手く書けなかったけど、せいいっぱい正直に書いた。
―ごめんなさい。
最後は、そう締めくくった。送信ボタンを押した。宛先は、パパのパソコンだ。
ちょうど、今頃、メールチェックをしている時間だ。
私にとって、たぶん、これまでの人生で一番長く感じられる時間が通り過ぎて行く。
三十分が経った。
着信音が聞こえ、私は携帯を見る。
パパからだ。
Re: 気になる私
私は、その長いメールを読んだ。そして、パパの前で泣くはずだった、十五年分の涙を流した。
拙い創作を読んでくれた皆さん、ありがとうございます。
実は、このショートストーリーは、最初、「ケータイ小説」のスタイルを借りて、OCDの少女の物語を書いてみたらどんなものになるだろう？
僕のそんな好奇心から書き始めたものです。パロディーとして、「ケータイ小説」をからかってみる。そんな意図で始めました。
途中から、主人公に思い入れが沸き、OCDの少女の一風変わったラブストーリーから、家族の愛憎、再生への物語と、内容が変わってしまいました。
レイプ、妊娠、イケメンの彼氏。これらの出てこない、「ケータイ小説」を書くのは難しいと言うことでしょうか。
そもそも、語彙の乏しい携帯で、必要最小限の、ステレオタイプの表現を多用して書くからこそ、「ケータイ小説」になるのであって、ワープロで書くには、無理があるに決まっています。
まあ、そんなこと最初から分かって当然なのでしょうが、それも考えずに興味のあることには挑戦してみるのが、僕らしいと言えば言えます。
たとえば、女子高生が友達から聞いた噂話を「携帯で書いて友達にでも見せようか」そんな気持ちで始めたら、案外、友達の評判が良く、励まされながら書いたりしているうちに、それを多くの子供たちが真似するようになる。内容は、内輪受けのする、都市伝説めいた話題だ。
やがて、そこに目を付けた大人が、売れないライトノベル作家あたりに声を掛けて、プロの文章で、ただし、高校生が読みやすい文章で「ケータイ小説」と銘打って書かせる。
ライトノベルが「ファンシー」風味であるのに対して、ケータイ小説は、「ヤンキー」風味に仕立て上げる。
ナンシー関の名言に、「世の中の大半は、ファンシーとヤンキーで出来ている」と言うのがあるが、まさにその通りに。
アイドル作家が出来上がったところで、活字化し、宣伝を打ち上げ、ブームだと煽り立てる。
「ケータイ小説」の流行の裏側は、まあ、そんなところではないかと僕は分析しているのですが。
物語の内容が自分自身の経験そのものである場合、人は、その物語を読まないものです。
ガンで闘病中の人が、「ガンと闘って死んだ人の感動手記」をベッドで読むとは考えにくいし、現在、愛人を五人抱えている男性が、「ホストに学ぶ女の口説き方」を読むとは思えません。
人が物語を読む理由は、興味がありながら、それが自分とは少し離れた世界の物語であったり、噂は聞いているけれど実際はどうなのだろう？そんな思いを満たしてくれる内容が、その物語の中にあるからのような気がします。
無論、読んでいる時間を忘れさせてくれる楽しさが、その物語にあるという条件付きですが。
そう考えると、「ケータイ小説」を読んでいる少女たちの実像が、僕には、何だかうっすら透けて見えてくるような気がするのです。
つい最近、起きた「秋葉原無差別殺傷事件」は、今も、生々しい記憶として皆さんの心に残っていることと思います。
マスコミは、絶対許されない犯罪と報道し、若年層の派遣労働など格差社会のひずみ、更に、ネット社会のあり方など、多くのことを語り続けています。
一方、ネット社会そのものの、「2ちゃんねる」などでは、「よくやった！神！」「やったのはいいけど、どうせなら、渋谷やお台場あたりでやって欲しかった」などの声も多く聞かれます。無論、言ってはいけないことを言ってみるのが匿名掲示板のお約束ですから、まともには受け取れません。
ただ、加藤容疑者が、所謂、「勝ち組」に対してのコンプレックスを強く持ち、間違った形とはいえ、取り敢えず晴らしたことに対する、ある種、カタルシスのようなものを感じている人間が多いのは事実のようです。
それは、同じような書き込みを匿名掲示板に書き込み、逮捕されている人間が続出していることからも伺えます。
加藤容疑者は、こうした犯罪者に対する、これまたお約束の「精神鑑定」を受けることになったようで、宮崎努、酒鬼薔薇聖斗、小林薫、宅間守と言った、かつての異常犯罪者たちも引き合いに出され、今ではすっかり言い古された感のある、「心の闇」の問題も取り上げられています。
ただ、今回の加藤容疑者は、決して、精神的な異常者という印象を僕は受けません。
悲しいことですが、反社会的な精神病質、そうしたものを持って生まれてくる人間が、この世にはいるのだと僕は考えています。
そのような人間の心の闇を解明するのは、残念ながら、同じ人間である我々には無理なのではないのか、そんな気がします。
それは、人間そのものが持っている「業」のようなもので、それを解明することは、神様の領分だと思っています。
今回、感じたのは、育った環境がかなり特殊だったとは言え、コンプレックスを抱えた、普通の若者が、なぜ、こうも簡単に一線を越えてしまったのだろう？そうした疑問でした。
容疑者の言葉で、強く印象に残ったものと言えば、
「勝ち組は、みんな死ねばいい」
「彼女がいないと言う一点で、人生は崩壊」
この二つです。
この二つの言葉から感じた僕の思いは、何て、強迫的なんだろう、と言うものです。
「勝ち組」か「負け組」と言う、中間のない、二者択一の思想。
「彼女がいない」ことで、男性として、自分は不適格なのではないか？と言う不安感。
OCDの僕にとっては、こうした「All or Nothing」の考え方は、とても身近なものです。
このような考えに呪縛され、振り回され続けてきたのが、これまでの僕の半生だったかも知れません。
「勝ち組」「負け組」は、最近、僕が最も嫌いな言葉の一つです。
更に、嫌いな言葉として、「今ドキの―」「イマドキの―」と言う言葉もあります。
どちらの言葉も、
「おまえは、人と違うんじゃないか？人より劣っているんじゃないか？人より遅れているんじゃないか？だとしたら、大変だぞ」
そう耳元で、囁かれているようで不快になります。
こうした言葉が、現代社会に生きる多くの人達を縛っている、そんな気がしてならないのです。
一億総強迫時代。そんな言葉さえ、浮かんできます。
僕は、これまでの人生の半分以上を「昭和」と言う時代の中で過ごしてきた者です。
昭和時代にも、勿論、流行語はありました。
でも、ここ数年のそれとは、ちょっとニュアンスが違っていた、そう思うのです。
最近の流行語は、「作られている」そんな印象を受けます。
社会の中から、自然に生まれたものではなく、まだ流行語の種のようなものに目を付けた仕掛け人が、それを育て増幅させて、流行語として流行らせる。そうしたパターンが目に付くのです。
それは、あたかも、「今年の流行色」が、ファッション業界の人々によって、あらかじめ決められるような感じです。
人々が流行を作るのではない。流行が、人々の思考と行動を作るのだ。そんな気がする昨今です。
流行や流行語を、国民が造り出せるだけのエネルギーを持っていたのが、「昭和」とするなら、「平成」は、人々には、流行を造る程のエネルギーは不足していて、流行は、仕掛け人が、具体的には、メディア、広告会社が造るのだなと言うのが僕の実感です。
「昭和」の流行語は、数多くありますが、僕が、ここで取り上げるのは、「ハナ肇とクレージーキャッツ」が、中でも、植木等が放った流行語たちです。
彼が歌う、「スーダラ節」の一節、「分かっちゃいるけど止められない」
これは、まさに、OCDと言う病の感覚を表現するために生まれたような言葉です。
植木等という人が、「無責任男」のイメージとは正反対の、とても生真面目な人物だったことは、かなり知られています。
実際、「クレージーキャッツ」でのタレントとしての活動について、こんな、ちゃらんぽらんな人物像を演じていていいのだろうかと悩み、お寺の住職をしている、実家の父親に相談したそうです。
その際、お父さんは、「分かっちゃいるけど止められない。それこそ、親鸞上人が説いている悟りの境地そのものだ」と息子を諭したとか。
金のない奴ぁ、俺んとこに来い。俺もないけど、心配するな。
見ろよ、青い空、白い雲。
そのうち、何とか、なるだろう。
彼が歌う歌詞は、放送作家で、後に、都知事になった青島幸男が書いたものですが、彼は、植木等と言う人物の本質を良く見極めていたのでしょう。
生真面目で神経質なくらいの人間、植木等を、ほんのちょっと突いて刺激したら、その表面の性格の裏に潜んでいる、爆発的なサービス精神が一気に飛び出してくるだろうと、直感的に感じていたのだろうと思います。
突き抜けたユーモアというものは、往々にして、そうした、一見、真面目な顔や抑制された感情の裏側に隠れていることが多いものです。
暗いイメージが強い、小説家太宰治なども、実は、素晴らしいユーモア感覚の持ち主で、それは、彼の小説を良く読めば分かります。
植木等が歌う歌詞、彼が演じる「無責任男」こそ、OCDを抱える者にとって、「こんなふうになれたら、どんなに晴れ晴れとして気持ちがいいだろう！」そう思える理想像です。
仕事に関しては、
―サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ。コツコツやる奴ぁご苦労さん！
女性に甘い言葉で騙されても、
―ふざけやがって、ふざけやがって、コノヤロー！
場違いなことをしてしまい、座が白けても、
―およびでない？およびでない？こりゃまた、失礼いたしましたーっ！
「無責任男」は、まだ起こってもいない悪い未来を考えて、くよくよ思い悩んだり、自分が犯したミスのせいで誰かが被害に遭うなどとは決して考えません。
自分が、その時、決断し行動を起こして精一杯やったのなら、後は、野となれ山となれ、天に任せるのみ。そう考えます。
自分の取った行動で何か悪いことが起きても、それはそれで、その事態を収拾する役割の人間がちゃんといるはずだから、気に病むことはない。そんな思考の持ち主です。
そうした点では、以前、このコーナーで取り上げた、作家奥田英朗が想像した、型破りの精神科医、「伊良部一郎」と共通するところがあります。
しかし、よく考えてみれば、すべてにおいて、「イケイケ」だった昭和の高度成長期の時代に、「無責任男」と言うキャラクターが登場し人気を博したのは、少し不思議な気がします。
本来なら、誠実で真っ直ぐで、ひたむきな、そんなやる気に満ちたキャラクターこそ、受けるはずなのに、これはどうしたことなのでしょう。
実は、当時もまた、人と同じでなくては不安でたまらない、中流の暮らしでなくては大変だ、高度成長に乗り遅れたら一大事、そんな強迫観念が人々を支配していたのではないでしょうか。
そして、更に、無意識のうちに、自分たちの生き方がいつまでも通用するはずはない、きっといつか反動が起きて暗く落ち込む時が来るのではないか？そのような予感に怯えていたように思えるのです。
だからこそ、無責任でもいい、誰かが尻ぬぐいをしてくれるのだから、今はやりたいようにやればいいんだ、誰もがそう思おうとしていた気がするのです。
「無責任男」の人気の陰には、そうした人々の心理が働いていたように僕には思えます。
高度成長期以前、太平洋戦争中は、「非国民と思われやしないか？」更に以前、江戸時代は、「武士として恥ずかしくはないか？」
人はいつの時代も、強迫観念に呪縛され続けて来たようです。決して、現代だけではありません。
いつの時代にも、その時代の加藤容疑者がいたに違いありません。ただ、マスメディアが発達していなかったせいで、必要以上に煽られることなく、事件を起こしても、世の中に知らされなかっただけで。
そう考えると、人は、常に強迫観念に支配されてしまう生き物のようです。
だとしたら、僕たち、OCD患者も、決して特別な人間ではなく、ちょっと人より強迫観念が強いだけ、そう思ってもいいかも知れませんね。
植木等演じる「無責任男」は、OCD患者の遠い理想、あまりに極端な理想かも知れません。
しかし、理想の姿を夢見て楽しむことは、人間だけに許された特権です。
本当に苦しく行き詰まったとき、自分が「平成の無責任男」あるいは、「平成の無責任女」だと想像して、ほんのひととき、心を休めてみる。
それも、いいんじゃないのかな。
ヘンなおじさんになりたい。「変な」おじさん、じゃなく。
僕は、思春期の頃から、心の底で、そう思い続けてきたような気がします。
そうした心がけのせいあって、今では、かなり、ヘンな伯父さんになりました。
でも、甥っ子たちにとって、僕の「ヘンな伯父さん」振りは、今ひとつかも知れません。特に、下の甥っ子Tにとっては。
下の甥っ子Tは今、高校を中退して引きこもっています。
自閉症の上の甥っ子Sのことは、このエッセイのコーナーで、すでに書きました。
今回は、下の甥っ子Tのこと、そして、最近観た映画「memo」のことについて書いてみようと思います。
いつものことながら、どんどん話が脱線して行くと思いますが、どうぞよろしくお付き合い願います。
幼い頃のTに対する僕の感情は、「近親憎悪」に近いものだったように思います。
Sが自閉症だったこともあったのでしょう、心身ともに健常児として生まれてきたTを、妹夫婦や、僕の両親、と言っても、父は子供嫌いなので母だけですが、みんなが、可愛がると言うより甘やかし放題にしました。
大人の心を読むことに関して、子供は大人が考えている以上に、巧みなものです。だから、許される範囲を考えつつ、子供は無意識のうちに計算しながら増長します。
Tもそうでした。つまり、Tは、僕によく似た子供でした。
僕と同じ小児喘息で自家中毒にかかったりする神経過敏なところも僕に似ていました。
トランプなどのゲームでも、自分が勝つまでは止めたがらず、ごねたりするところも子供の頃の僕にそっくりで、大人がわざと負けてやったりすると、それと察し、密かに傷付くところも僕に似ていました。
だから、僕は、自分が子供の頃の、わがままで利己的な、それでいて、大人のずるさに敏感だった、もう一人の僕を見ているようで、どちらかというと、Tには厳しい伯父さんだったと思います。
Tのような、神経過敏でわがままな子供が、このまま甘やかされたまま成長したら、僕と同じような辛い思春期を迎えるに違いないという、はっきりとした予感が僕にはありました。
妹たちは、幼稚園で活発にダンスを踊ったりするTを見て、自閉症の兄とは違いこんなに明るく社交的なのだから将来は安心だと思っていたようですが、僕は違います。なぜなら、僕自身、子供の頃は活発なやんちゃ坊主だったのですから。
自意識が芽生え始める頃、つまり、中学時代の頃に、Tは大きく変わるのではないか？
そう危惧していました。不幸にして、それは的中したわけですが。
表面上、Tの中学時代は無事に過ぎたようで、伯父さんとしては杞憂だったかなとホッとしました。
Tは、中三の時、一年間家庭教師を付けて貰い高校受験に備えたのですが、志望校には落ち、私立の実業高校に入学しました。
彼が第一志望として受けたのは、旭川から少し離れた町にある高校で、そこなら大丈夫だろう言う進路指導に従ったそうですが、考えることは皆同じで、同レベルの生徒たちが集中して受験する結果になり、二倍もの競争率になってしまったとのことでした。
伯父さんとしては、友達と遊んだりクラブ活動に励んだり恋をしたり、そんな生き生きとした高校生活を送るのが一番と考えていたので、入った高校で青春を思う存分楽しんで欲しい、そう思うだけでした。
妹から母へ電話がかかってきたのは、Tが高校に入学した夏だったと思います。
夏休みが終わったのに、Tが学校に行きたくないと言っている。
そんな妹の相談でした。
Tは、こう妹に打ち明けたそうです。
中学の頃から学校生活が辛くて、高校に行ったら何か変わるのではと期待して入学してみたが何も変わらなかった。もう限界だ。
ああ、やっぱりそうだったのか。それが、僕が最初に感じたことでした。
中学時代の僕とTとの関係はと言えば、パソコンを通してのものがほとんどでした。
中古のデスクトップパソコンを買うとき、相談に乗ってあげたり、正月にうちに来たとき、僕の古いノートパソコンを上げたりと、その程度の付き合いでした。
時折、妹から電話がかかってきて、Tがパソコンのことで伯父さんに訊きたいことがあると言っていると言われ、本人に話さないと分からないからと、Tを電話口に呼んで貰うと、渋々出てきて、教えてあげたりしていました。
今思うと、もうすでに、僕と同じように、電話で話すと言うことが苦手になっていたのだと思います。
Tと、ただ一回だけ、心が繋がったのかなと思えた時があります。
それは、不登校になって間もないとき、Tとの一時間近くもの長い電話でのことです。
僕は、自分の中学三年当時の不登校の体験、そのときの心境、今振り返って考えることなどを、Tに精一杯話しました。
Tもまた、自分が感じていたことを話してくれました。
中学時代の息苦しい体験。休み時間、一人で過ごす辛さ。
中でも、一番嫌だったのが、先生が、「誰かと組になって」と言う時だったと打ち開けてくれました。
長い電話の最後に、「ありがとうございました」そう丁寧に僕に言ってくれたことを良く覚えています。それまで、「ああ」とか、「いや」とか、最小限の言葉しか僕に話さなかったTなのに。
あの時、確かに、集団に上手く溶け込めない者同士として、二人はどこかで心が交差したと僕は思っています。
Tが再び心を閉ざすようになったのは、それからしばらくして、でした。
保健室にいるだけで登校したことと見なしてあげるから学校に来なさい。そう先生に言われたそうです。
その言葉に応じて、登校し保健室にいたら、生活指導の教師がやって来て、こんな所にいないで教室に来い、そう言ったのだそうです。
妹からの又聞きなので、真相は正確でないかも知れません。
しかし、もし、そうだとしたら、Tは、騙された、話が違う、そう強く感じたに違いありません。
それから、彼は二度と学校に行かなくなり、二年に進級することなく高校を中退しました。
それ以来、食事も自分の部屋で取ると言う、典型的な「引きこもり生活」を続けています。
以前は、正月には、両親と一緒に遊びに来ていたのに、Tはうちに来ることもなくなり、旭川のマンションに一人残るようになりました。
外に出ることは、ほとんどなく、主に、自分の部屋でゲームをやっているようです。
ただ、昔の僕と違って家で暴れることはなく、身だしなみなどもきちんとしているようです。髪も自分で切り、髭もちゃんと剃っているとのこと。
一度精神科の診察を受けて、「社会不安障害」ではないかと言われたそうです。
社会不安障害―SADのことをネットで調べてみると、確かに、Tに当てはまることが多い気はします。
しかし、人の目が気になり緊張する。対人関係が上手く結べない。そうした社会不安障害の症状は、僕にも当てはまることであり、こうした症状に、特定の病名を付けること自体、どこか無理があることなのかなと僕は思います。
確かに、こうした、対人関係の極端な苦手さは、人見知り、内気な性格と言った言葉では簡単に片付けられないものです。
社交家の母などは、「友達なんて自分から作らなければ」の一言で切り捨てますが、そうした単純なものでないことは、僕が一番よく知っています。
OCDや自閉症などと共通する、脳の中の、人とはちょっと違う働きが、彼の心を不安にさせ行動を縛り付けているのでしょう。
思い起こせば、Tは、幼いときから几帳面なところがあり、うちに来たときなど、母が集めて飾ってある置物の位置が少しでもずれていると直したりしていました。
現在の彼に、OCDの症状が現れているかは分かりません。妹の話では、少なくとも、部屋の外では症状は見られないようです。
現在、僕からTに働きかけることは難しいです。電話で幾度か話しましたが、かつてのように、心をほんの少しでも開いてくれることはありません。
Tは、一人でいることは辛くない、寂しくないと言っているそうです。僕には、それが本心ではないように思えて仕方ないのですが。
Tが一人でいることに耐えられない、そう、SOSのサインを発したとき、その時が、伯父さんの出番だなと、僕は思っています。
今は、ただ、待つしかない。そのようです。
けれど、人付き合いが不器用な、自分と似た心を持った身近な存在がいることを、心の片隅にでも覚えていて欲しい。
ただ、そのことだけを伯父さんは願っています。
さて、そろそろ、映画「memo」の話題に移ろうと思います。
この映画は、俳優の佐藤二朗さんの初監督作品です。
佐藤二朗さんは、顔を見れば、あの人と分かる個性派の俳優さんです。
僕が初めて彼を観たのは、テレビドラマ「人間の証明」―竹野内豊、夏川結衣、緒方拳、松坂慶子らが出演していました―の、嫌みな刑事役でした。
その後、「夜王」や「医龍2」など多くのドラマで、魅力的な脇役を演じています。
彼が、自身がOCDで、この病気をテーマにした映画を作ったと知ったのは、ネットを観ていた時でした。小さな記事が目に留まったのです。
ふと頭に浮かんだことをメモしなくてはいられない。そんな強迫観念に悩まされ続けてきた。
そう書いてありました。
それは、試験など、緊張したときに起き、苦労したとのこと。
現在、劇団を主宰している彼は、舞台の上でも、この強迫観念に襲われるそうで、そうしたときは、太ももに指で文字を書いて凌いでいるそうです。
僕は、この映画のDVDを購入しました。
佐藤二朗のOCD症状そのままの女子高生と、同じくOCDである、彼女の叔父さんとが織りなす物語です。叔父さんを、佐藤二朗自身が演じています。
これから映画を観る人のために、ストーリーの細かな部分には触れません。
お勧めしたい映画なのに詳しく話せない。キーポイントとなる部分については特に言えない。
映画評論家の気持ちが分かりますね。
「もう、これは観るしかないっ！」そう叫ぶ、おすぎの気持ちが少し理解できました。
ただ、それではあまりに素っ気ないので、叔父さんの登場シーンと去るシーンが印象的とだけ言っておくかな。
おかしく現れ、切なく去って行きます。
二人の症状について、強迫性障害ともOCDとも映画では語られません。
ただ、映画の予告編で、強迫性障害についての説明があります。
叔父さんの手洗い場面での、心の葛藤シーンは、OCDの僕が思わず笑うほど傑作で、しかも身につまされ、改めて、この病気の不思議さを感じました。
海外テレビドラマの「名探偵モンク」もそうですが、精神疾患で笑いが取れるとは、OCDは貴重な病気といえます。
症状をリアルに描いて笑えるのですから、「障害者を笑いものにしている」などと、障害者団体も文句の付けようがありません。
そうした貴重な心の病、OCDであることを、僕たちは誇りに思ってもいいのかなと、冗談でなく、そう思います。
笑われる、のではなく、笑わせている。そう思うと、少しだけれど気分も違ってきます。
この映画の中の叔父さんは、OCDと苦しい闘いを続けています。
「君がこれから生きて行く上で辛いことがたくさんあるだろう。だが負けるな」そう、姪っ子を励まします。
そんな叔父さんのメッセージを受け止めつつも、主人公は、闘わずに、今、目の前にあるささやかだけどかけがえのない幸せに目を向けようとします。
家族との絆。
自分と同じように苦しい学校生活を送っているクラスメイトを思い遣る心。
彼女のそんな姿を描くことで、やがて、彼女が、OCDをやり過ごす術を身に付けて行くことを、観客に予感させます。
佐藤二朗監督は、この映画を通して、視点をほんの少し変えて見れば、今まで気付かなかった幸せが見えてくる、人生の価値あるものがすぐ身近にあるのだと分かる、苦しみの渦のまっただ中にいる人たちへ、そう語りかけているようです。
目の前に立ちふさがる大きな壁を見上げることを少し止めて、視線を足下に向けてみたら？
そう言っているようです。
闘わず、ただ生きて行く。それでいい。OCDはずっと一緒について来るとしても、その影に必要以上に怯えることはない。
監督のメッセージを、僕はそう受け取りました。
中学三年の不登校時代、僕はよくこんなことを考えました。
ヘンなおじさんがいたらなあ。
両親や祖父母や先生とは少しずれた価値観を持って生きているおじさん。
世の中の常識をはみ出したところで、それでも堂々とマイペースで生きているおじさん。
「友達を作るには、こちらから飛び込んで行かなくちゃ駄目だよ」
「将来の目標をきちんと持って前向きに頑張らなくちゃ」
そんなこと、間違っても言いそうにない、おじさん。
両親や親戚に、「あの人にも困ったもんだねえ」などと陰口を言われ、それでいて、「あんな生き方、私たちには絶対無理」そう言わせてしまうおじさん。
友達は横の繋がり。両親や先生は縦の繋がり。
そのどちらでもない「斜めの繋がり」が、僕は欲しかった。
今なら、そう分かるのです。
「おじさんみたいには、僕はなりたくない」
でも、「あんなふうになったらなったで、案外気楽かも」
そして、「万一、道から外れても、あんな生き方もあるんだ」
そんな風に思わせてくれる、ヘンなおじさん。
僕は今、甥っ子たちにとって、そんな存在でありたいと思っているのです。
僕が学生の頃、国語の教科書には、たいてい、志賀直哉の短編が載っていたものです。
「網走まで」「城之崎にて」と言ったところでしょうか。
当時は、「小説の神様」などと呼ばれた、志賀直哉も、現在ではあまり人気がないようで、現に、このエッセイを書くにあたって読み返そうと思って、何軒かの本屋の文庫コーナーを探したのですが、一冊だけ、短編集「小僧の神様・城之崎にて」があっただけでした。図書館にも行ってみたのですが、日本文学の棚に、彼の本は一冊もありませんでした。
志賀直哉は、家父長的な雰囲気の、男性的で明晰な文体の作家で、そうした作家は、やはり現代では人気がないようです。「等身大の弱さ」の感じられない、どこか、「立派」な作家は、現代の若者の感性にはそぐわないのでしょう。
やはり、太宰治、三島由紀夫と言った、自身が社会の異端者であり、揺れ動く不安な心を描いた作家が今も人気があるようです。
実は、僕も、志賀直哉はあまり好きではありません。明解で、理性的で、男性的なようでいて、案外、めめしい、形にこだわるスタイリストのような感じもして、あまり親しみや共感が持てないのです。
志賀直哉と同じ、「白樺派」の作家、武者小路実篤の青春小説「友情」の主人公の友人で、主人公がコンプレックスを感じる、男らしくスポーツマンで女性にもてる、その友人のモデルが志賀直哉だと言われています。
そんなところに勝手に、僕が反感を感じているだけかも知れませんね。何て心が狭いんだろうな、僕は…。
ただ、そんな彼の小説の中で、ただ一編だけ、強烈に印象に残っている短編があるのです。
それが、「剃刀」と言う作品です。
僕が「剃刀」と言う短編を読んだのは、中学三年の不登校時代だと思います。
その頃、文庫本を通して初めて「文学」に触れた僕は、背伸びしたい気持ちもあり、「日本文学全集」を買って貰いました。
今にして考えると、この「文学全集」で、随分多くの貴重な、今ではなかなか捜して読むことが不可能な小説を読むことが出来ました。それは、今、僕のかけがえのない財産となっています。
最近話題になっている小林多喜二の「蟹工船」なども、この全集で読みました。
志賀直哉の短編「剃刀」のあらすじは、以下のようなものです。
主人公は、年配の、職人気質の腕のいい床屋。
しかし、ある時、風邪をこじらせ寝込んでしまい、腕の未熟な弟子やおかみさんが、彼の代わりに、床屋の仕事をこなさなくてはならなくなります。
しかし、やはり、床屋としての技術には、主人とは格段の差があり、このままでは、常連の客も離れてしまいそうになってしまいます。そこで、まだ風邪が完治していない主人が無理をして店に立つことになります。
長年愛用している剃刀も、弟子が手入れを怠けていたせいで切れ味も悪く、それでも、主人は気を取り直し客の髪を切って行きます。
ようやく一日の仕事が終わろうとする頃、一人の若い男が店に入ってきます。
「手っ取り早くやってくれよ」そう言う、客の髪を主人は切り始めます。
髪を切り終え、顔を剃る段になって、主人は少し疲れを感じ始めました。しかし、仕事の手を止めることは出来ません。
主人は、剃刀を手にして顔を剃り始めます。これまで、何百回となく行ってきた作業です。
顔を剃る技術に関しては、彼は、絶対の自信がありました。
ところが、手元が狂い、客の顔に、ほんの少しだけ傷を付けてしまうのです。
今までそんなミスは一度もなく、また、絶対あってはならないことです。彼には信じられません。
皮膚から、血玉がぷっくりと米粒のように盛り上がってきます。
彼は、うろたえました。今まで、床屋として、積み重ねてきたものはどうなってしまうのだろう？
彼の頭は真っ白になります。自分が自分でないような、そんな思いに囚われます。
そして、静かに、手にしている剃刀を、客の喉に深々と突き刺すのです。
この小説を読み終えたときの印象を、僕ははっきりと覚えています。
この感覚、何だかよく分かるな。
完璧か、さもなければ、無の方がよっぽどましだ。
僕と同じだ。100%であることを失ったら、後は、そこそこ、なんて有り得ない。すべてぶち壊した方がすっきりする。
この主人公は、そんな思いで、客の喉に剃刀を突き刺した違いない。
当時は、自分がOCDと言う意識はなかったものの、自分の性格の癖をよく知っていた僕には、主人公の気持ちが、すんなりと理解できたのです。
最近、この短編のことを思い出したのには、二つ理由があります。
一つは、アメリカの心理学者で、OCD治療の権威、リー・ベア博士の著書「妄想に取り憑かれる人々」を読んだこと。
もう一つは、阿刀田高の「短編小説に愛をこめて」と言う、エッセイ集を読んだことです。
後者のエッセイ集の中で、この志賀直哉の「剃刀」が特異な短編として、タイトルだけ紹介されていて、それで以前に、この短編を読んだときの印象を思い出しました。
そこから、「妄想に取り憑かれる人々」で解説されていた、「心の中に潜む加害強迫」のことに思い至り、このような、僕なりの解釈に辿り着いたと言うわけです。
「妄想に取り憑かれる人々」は、前に、このエッセイのコーナーでも取り上げました。
誰の心の中にも住んでいる、心の中の「天の邪鬼」の存在を、この本は私たちに教えてくれています。
絶対言ってはいけない事を言ってしまいたい衝動。してはいけないことを行いたい衝動。そんな心の不思議を語り、それを実際に行ってしまうのではないか？と怖れる人達、つまり、心の中だけのOCDに悩む人達について教えてくれています。
リー・ベア博士の所に、「剃刀」の主人公がカウンセリングに訪れたとしたらこんな感じでしょう。
「先生、私は、どうかしちゃったみたいなんですよ」
「どうされました？」
「私、床屋なんですけど、ある日突然、とんでもないことが頭に浮かんだんです。仕事中、客の顔を剃っているとき、『自分は今、剃刀を客の顔に当てている。客は無防備に半分眠っているようだ。もし、万一、ここで、私が、この客の喉に剃刀を当てても、客は抵抗すら出来ないだろう。私はいつでも簡単に人を殺せる。毎日何回も、私には人殺しのチャンスがある』そんなことを思ってしまったんです。そうしたら…」
「そうしたら？」
「ええ。もうその考えが頭から離れなくなってしまって。もしかしたら、自分の心の中に、密かに、そんな殺人願望があるんじゃないか？だから、そんな馬鹿な事が頭に浮かぶんじゃないか？そう思ったら、不安で不安で、仕事が手に付かなくなってしまったんです」
「なるほど。大丈夫ですよ。私は断言します。あなたは絶対そんなことをしません」
「なんで、そう断言できるんですか？魔が差すってことがあるじゃないですか」
「あなたは、今まで、そうやって剃刀を使って人を殺したことがありますか？」
「あるわけないじゃないですか！」
「じゃ、人を殺すことを空想して楽しんだことは？」
「ないですよ」
「そうでしょう？もし、あなたが、あなたが怖れていることを実際に行動に移してしまう異常者だとしたら、今まで何度となく、そのチャンスがあったのですから実行していたはずです。そして、あなたは、何より、心の中で、自分がそうした殺人を犯すことを怖れている。もし、あなたが殺人を行動に移す人物なら、きっと、あなたは、その空想を楽しんでいるはずです。それが、あなたが、それを行動に移さないと私が断言する、何よりの証拠です。」
志賀直哉が、ある時期、被害妄想に悩まされていたと言う研究資料もあります。
もしかしたら、床屋で顔を剃っても貰っていた時、「もし、この男が狂っていて、私を殺そうと思ったら簡単に殺せるだろうな」そんな日常の中の、「殺人可能な空間」に怖れを抱いて、この短編を書いたのかも知れません。
もし、…だったら。そんな空想から、小説は生まれることは多いのです、
この話では、もし、床屋が狂っていたら、あるいは、狂気の発作を起こしたら。
そうした、志賀直哉の「もし、…だったら」から、生まれた、被害妄想の延長線上にある作品かも知れません。
しかし、僕には、主人公の床屋の性格、剃刀を扱う腕前に対する絶対の自信。それは、床屋としてだけではなく、彼という人間のこの世での存在価値を表しているようにも思えるのです。
こうした人間の心の中が「天の邪鬼」は大好きです。
床屋は、不幸にして、客の顔に小さな傷を作ってしまいました。これは、どんな腕の良い、床屋にもあり得ることです。
だが、「天の邪鬼」と言う、心の中の、加害強迫観念は、こう囁きかけます。
「完璧でなかったら、それは、ゼロと同じさ。やっちまいなよ。証拠を消して、また、ゼロから完璧を目指そうぜ」そう囁きます。
その囁きのままに、彼は剃刀を客の喉に突き立て…。
これが、OCDの床屋の心理に即して描いた「剃刀」です。
ただ、リー・ベア博士が断言したように、主人公は、たとえ、小さなミスをしても、彼が妄想して怖れていたことはしないはずです。
少々は、ショックを受けますが、プロらしく、止血し、客に謝罪し、作業を続けるに違いありません。
皮肉にも、そうした事態が起きて、初めて、彼は、自分の「天の邪鬼」が怖れるに足りないものだと知るわけです。
志賀直哉自身、OCDの要素があって、それを発展させて、この短編を書いたのか、それとも、OCDの友人から「自分でも説明の付かない奇妙な心理」を聞いて、ヒントを得たのか、あるいは、数少ない資料の中から、アイディアを見いだしたのか、それは、研究者ではない僕には分かりません。
決して、やってはならないことを、自分はやってしまうかも知れない。なぜなら、そのことが頭に浮かんで離れないのだから。
そうした、心の中だけのOCDは、現在、多くの人を苦しめています。
「剃刀」は、そうした人間の心理を扱った、非常に珍しい小説と言えます。
しかし、これはOCDの僕の、穿った深読みかも知れません。
もし、読まれた方がいたら、意見が聞きたいものです。
「精神病院」と言う言葉には、やはり、恐ろしく不気味な響きがあります。今は、「精神・神経科」と言う看板を掲げている病院がほとんどでしょう。
更に、「メンタルクリニック」となれば、ずっと気楽に診療を受けられる気がします。
やはり、言葉が人に与えるイメージは大きいものです。
昔は、「脳病院」などと言っていたのですから、人々が抱いていた恐怖感は想像が付きます。
時代と共に、病院の呼び名も、病棟の造りも、また、職員の患者に対する対応も変わってきたようです。
現在では、病室の窓に鉄格子の嵌められている精神科を捜す方が難しいかも知れません。僕の入院していた病院も、強化ガラス製で、三十センチ程だけ開くような造りになっており、鉄格子はありませんでした。
しかし、そんな現在でも、精神科の閉鎖病棟の実態については、様々な噂が囁かれているようです。
やはり、なかなか見ることが出来ない場所というのは、誰にとっても興味のあるものなのでしょう。
今回は、僕が入院していた閉鎖病棟の実態と、更に、保護室と言う、精神科の、言わば、「奥の院」とも言うべき場所について、語ってみようと思います。
僕の保護室への入り方は、最悪と言っていいでしょう。何しろ、初めての入院で、いきなり病室ではなく、保護室に入れられたのですから。
診察室で興奮し暴れた僕は、鎮静剤と思われる静脈注射を打たれ、四人の男性介護士に両手両足をそれぞれ掴まれ、御神輿のように担がれ、鉄の扉の向こうへと運ばれて行きました。
記憶しているのは、僕が足を必死にばたつかせ、扉のすぐ向こうにある売店の店先の商品を蹴飛ばしたことです。抵抗もむなしく、僕は、閉鎖病棟に通じる廊下の壁の隠し扉のような所から中へ押し込まれました。そこが、保護室でした。
注射が効き始めて頭は朦朧とし始めていました。立っているのもままならないほど、身体がふわふわした感じがしました。
周りは、四方を薄緑色のリノリウムの壁に囲まれていて、四畳半くらいの広さ、和式のトイレが付いていました。
目の前には、鉄格子の嵌った扉があり、細い通路が見えました。扉のこちら側には、あるべきはずのドアノブがありません。つるりとして、のっぺらぼう、なのです。
それを見ただけで、僕はもう何とも言えない、生理的な恐怖感と圧迫感を覚えました。
大変なことになった！
その思いが、頭の中をぐるぐると周り、息が出来ないような、心臓が破裂しそうな、そんな後悔と恐怖の入り混じった感情が一気に押し寄せ、僕を押し潰しそうでした。
その時、思い浮かんだのが、深呼吸をしてみよう！と言うことでした。
何かの本で、窮地に追い詰められパニックになったら、深呼吸をしてみることだ、そんなことが書いてあったのを思いだしたのです。
ひとーつ。ふたーつ。みーっつ。深く大きくゆっくりと、僕は深呼吸をしました。すがる思いでした。
すると、不思議なことに気持ちが落ち着きました。確かに、深呼吸は、パニック状態になったときに効果があるみたいです。
その後、気持ちが落ち着いたのか、注射の効き目なのか、長く、浅い、不思議な眠りに落ちて行きました。
時折、目が覚め、状態の深刻さにおののき、また、眠りに落ちて行く、その繰り返しがどれほど続いたでしょうか。
はっきりと目が覚めて、頭がすっきりとした時、改めて、僕は、自分の置かれている状態の深刻さを感じました。
座敷牢―そんな古めかしい言葉が浮かびました。
僕は、一生、ここで暮らすのか。
両親は、僕を持て余し、病院と話し合いの末、僕の存在を社会から抹殺したのかも知れない。
僕をどこか遠い場所に暮らすことになったと、近所には説明し、僕をいないものとしてしまうつもりかも知れないと、その時は、真剣に思いました。
確かに、ここ最近の僕の周囲に対する荒れ様は、そうされても仕方ないほど、激しかったのです。
我が殿は乱心の上、狂死。
そう、幕府に届けを出されて、一生を座敷牢で送った殿様のことを思い浮かべました。
笑い話のようですが、真剣にそんなことを考えたのです。
それから、目の前の鉄格子を見て、思ったことをはっきりと覚えています。
チビだったら、簡単に抜けられるのになあ。
「出してください！お願いします！」僕は、半分泣きながら、鉄格子の外に向かって叫びました。しかし、返事はなく、不安感が込み上げるばかりです。
その時は、自分がいる場所がナースステーションの奥にあるとは知りませんでした。
ただ、自分が、この病院のどこか奥深い場所、叫び声も届かない、そんな場所に閉じこめられている、その恐怖感だけがありました。
時間の感覚はなかったのですが、看護師さんが食事を運んできました。お盆に載せられた粗末な食事でした。
合成樹脂で出来た御飯茶碗の蓋を開けると、蒸れたような御飯の臭い匂いが鼻を突きました。
刑務所に服役することを「臭い飯を食う」と言いますが、まさに、このことか、と思いました。
部屋の造りも、本で読んだ「独房」に近いものでした。
食事は不安感もあり、ほとんど喉を通りませんでした。
一息付けたのは、たぶん、保護室に入れられて丸一日経った午後だったでしょう。
介護士の男性が、アンパンとパック入りの牛乳を持って、鉄格子のドアを開け、入ってきたときでした。
不安におののいている僕に言いました。
「いつまでも、ここに入っていられちゃ、こっちが困るんだよ」そう言いました。
「今、ご両親が、入院に必要なものを揃えているはずだよ」それを聞いて、僕は、ああ、自分は見捨てられた訳じゃなかったんだ、そう思うと、安堵の思いで胸がいっぱいになりました。
僕は、保護室に入って、初めて、落ち着いて、食べ物を食べることが出来たのでした。
僕は、その保護室で、二週間を過ごしました。
色々辛いことがありましたが、その一つが、便器の水を自分で流せないと言うことです。大便をしても、看護師さんを呼んで、保護室の外にあるレバーを押して貰わなくては、便は流れて行きません。
看護師さんを呼んでも、来てくれないことが多かったです。
忙しいと言うこともあったのでしょうが、保護室にいる患者というのは、皆、状態が悪く、色んな事を叫んだり喚いたりと、それはかなり凄まじいのです。
世間の人達が、精神病患者に抱いているイメージ、そのままと言っていいかも知れません。
幻聴や幻覚に苛まれている患者さんの様子を壁越しに聞き、僕は、自分が今、どこにいるかを思い知らされました。
そうした患者たちの言うことを聞いて毎回駆けつけてきたら身が持たない、それが、看護師さんたちの本音だと思います。
朝晩の洗面や歯磨きも、看護師さんが付き添い、と言うより、監視付きで、風呂も、男の介護士さんと一緒でした。
僕にとって、長い二週間でしたが、それは、僕が服用していた、アナフラニールの断薬による離脱症状を観察していたのだと思います。
「よく我慢したね」その主治医の先生の言葉と共に、僕は、保護室を出て、病室に移りました。
その時の開放感は、今も忘れられません。
本来なら、閉鎖病棟の病室に入ると言うことは、初めて入院する患者にとってかなり重苦しいことのはずなのに、保護室から移ってきた僕にとっては、地下室から地上に出て太陽の光を浴びたような爽快感がありました。
皮肉なことに、二週間の保護室体験が、僕の精神科での五ヶ月の入院生活を気持ちよくスタートさせることになった訳です。
保護室で両隣の患者さんの実態を知っている僕は、それから病棟での生活で出会う、様々な症状の患者さんたちを見て驚くことはありませんでした。
二度目に入院したときは、一晩の保護室生活でした。
警察に強制的に入院させられたので、もっと長く入っていなくてはならないかなと思っていたので、拍子抜けしました。
しかし、この一晩は、僕にとって、大きな意味のある一晩だったと今では思っています。
野良犬が捕獲されるように、病院に放り込まれた。落ちるところまで落ちた。
その感慨が、その後の僕の人生に大きな変化を与えたと思っています。
もう一つ、二回目の保護室は、僕にとって衝撃的な意味がありました。
人間は、心の病が重くなると人格が変わってしまう。もっと、極端に言えば、人としての尊厳を失ってしまう。
その事実を知ったことです。
最初の入院の時、五十代の陽気な男の患者さんがいました。女性の患者や看護師さんにエッチなことを言ってふざけたりする、ちょっと困った、それでいて憎めない人でした。
僕が一回目の退院をする頃、状態が悪くなっていたのは知っていました。統合失調症だったと思います。
僕が一晩過ごした保護室の隣に、その人がいたのです。
大声で意味不明の言葉を喚き散らしているその患者さんが、あの陽気だった人とは僕には最初分かりませんでした。看護師さんがドア越しに名前を呼ぶのを聞いて、やっと分かったのです。
半年くらいで、人は、こんなにも変わってしまうのか。それは、精神病をある程度理解しているつもりの僕にとっても、ショックでした。
僕が保護室を出て、だいぶしてから、その人が、ベッドに乗せられたまま、廊下を運ばれて行くのを見ました。身体や顔が硬直した感じで目を閉じていました。
看護師さんが話しかけていましたが、返事をすることはありませんでした。別の病棟に行ったようで、その後、その人がどうなったかは分かりません。
人間の心とは一体、何だろう？
改めて、僕は考えました。
脳の機能が、人の心のすべてなのだろうか？それとも、何か、もっとどこか深くに、魂と呼ぶべきものが、人にはあるのだろうか？
答えは分かりません。
ただ、人の心が脳の働きだけによるものだと考えることは、少しむなしすぎる気が僕にはするのですが。
これは、精神疾患に限らず、認知症などの問題とも共通するものです。
人がその答えを、果たして見付けることが出来るのか、それは僕には分かりません。
ただ、人の脳が、極度にその働きを失ったとき、人がどうなるか、その事実を知ったことは意味のあることだと思っています。
これが、ゴスペルのハワイ公演から帰って来てから、僕が書く、初めてのエッセイになります。
集団での海外旅行を終えて感じたことの一つに、OCDそのものによる障害より、その後遺症によるものの方が辛かったと言う思いがあります。
確認恐怖については、出発前の書類の作成の方が大きかったくらいで、たいした障害にはなりませんでした。勿論、これには、自分の大切なものは一切、持って行かなかったと言うことが大きいです。
不潔恐怖についても、ホテルの部屋を、僕がいない間に、害虫駆除されたのですが、予めその旨、メッセージがドアの下に挟んであったので、気になる、歯磨き用品と髪を整えるブラシを、ビニール袋にしっかりと入れて部屋を出たので大丈夫でした。
帰国してからも、その害虫駆除スプレーの影響を受けたかも知れないブラシを使用できているので、僕の不潔恐怖は、随分と良くなったのでしょう。
対人恐怖から来る気疲れが一番大きかったのですが、もう一つ、OCDによって奪われた自分の人生について考えさせられた旅行でした。
三十人ほどの旅行だったのですが、僕と同じくらいの年齢の人は皆、家庭を持っていて、独身は僕一人。
現地で迎えてくれた教会関係の人達も、僕と同世代で、皆、信仰をしている人達に相応しいような暖かな家庭を築いていました。
更に、海外というところは、高齢の夫婦でも、仲良く手を繋いでいるのが当たり前のようで、そうした光景を見るに付け、僕は、やはり、多くの人と違った道を歩んできたんだなと言う思いを抱きました。
そうした、幸せな家庭を築いている人たちを見ると、以前は、羨ましいというより、妬みに近い感情を持ったものですが、現在は、別な世界の人達という、遠い目で眺めるようになりました。
勿論、僕のような生き方をしている人も多いでしょうし、また、どんなに仲の良さそうな夫婦も、真実の生活は、また違ったものがあるのかも知れません。
ただ、自分の人生を考えたとき、随分と「のっぺらぼうな人生」だなあ、そんな感慨を抱くのです。
結婚して、子供を産み、育て、夫婦喧嘩をしたり、更には、子供がぐれたり、離婚したりと、そのような、人生の「山あり谷あり」と言った、人間臭い部分が僕の人生からは欠落しているのです。
ずっと、訳の分からない、苦しさ、孤独感、焦燥感に苛まれながら、単調な一本道を歩いてきたと言うのが、僕の、自分の半生に抱く強い印象です。
僕が自分らしく生きることが出来るようになったのは、ここ十年に満たないことです。
それまでの僕は、薄暗い闇の中で、悪夢を見ながら、まどろんでいた、そんな気がします。
前置きが長くなりましたね。
そこで、今回、取り上げるのが、映画「レナードの朝」です。
この映画は、精神科医で作家のオリヴァー・サックスによって書かれたノンフィクションを原作としています。
実際に、1969年に、慢性脳神経疾患の患者を治療している病院で起きた、一夏の出来事を、この映画は描いています。
ニューヨークにある、この病院に、研究者である精神科医のセイヤー医師が訪れるところから物語は始まります。
本来、基礎研究が専門だった彼は、生活のため、臨床医として、この病院に就職したのです。
赴任してすぐ、彼は、病院の医師たちの無気力振りに落胆します。
医師たちは、皆、原因が分からず治る見込みのない患者たちをただ預かっているという認識で、病気の原因を追及しようとか新しい治療法を模索しようと言う意識はありません。
たぶん、この時代の精神医療の実態は、どこも皆、そのようだったのでしょう。
セイヤーは、患者一人一人に話しかけ、改善させようと努力するのですが、彼の行動は、彼を、周囲から浮いた存在にしてしまいます。
セイヤーが特に、興味を抱いたのは、身体が全く動かず、顔の表情もなく、ただ、生きているだけという、何人かの患者たちでした。
他の精神科医が、全く治る見込みのない患者たちと決めつけているのに対し、セイヤーは、ある試みをします。
患者に、色々な刺激を与えて反応を見ようとしたのです。
多くの患者は、彼が投げたボールを反射的に受け取ることが出来ました。他の精神科医は、単なる筋肉の反射だと言いますが、彼は、患者たちに、何らかの意志があるのではないかと考えます。
表情の全くない仮面のような顔の下に、彼らは、意志や思考を持っているのではないか？ただ、それを表現できないでいるのではないか？そう考えたのです。
そして、彼の試みは、始まります。
音楽を聴かせると、わずかに、表情を見せる患者が現れます。床の模様に従って、歩くことの出来る患者も現れました。
看護師たちも、しだいに、彼の熱意に動かされ、協力し始めます。
そして、セイヤーは、患者の資料を調べて、あることに気付きます。
患者たちは、若い頃、以前、流行した「嗜眠性脳炎」にかかっていたのです。
これは、別名、「眠り病」とも呼ばれ、このウイルスに脳を冒されると、手の震えから始まって、身体の動きがしだいに緩慢になって行き、最後には、眠っているかのように全く動けなくなってしまう、そんな病気でした。
彼は、この病気の権威に相談しますが、患者は廃人となっていて回復の見込みはないと断言されます。
しかし、彼は、諦めず、ある薬に着目します。
それは、「L-ドーパ」と言う、合成で作られたドーパミンでした。
本来、「パーキンソン病」のために開発された薬を、彼の患者たちに試してみたらどうだろう？そう考えたのです。
彼は、「嗜眠性脳炎」の動かない、硬直した身体は、「パーキンソン病」における、身体のけいれんが極限に達したものではないか？そう推測しました。もし、そうなら、「L-ドーパ」は、効果を上げるはずです。
人体実験に近いこの試みに、ほとんどの医師は、反対します。どんな副作用をもたらすか分からず、責任を取れないからです。
この辺りは、無理からぬ事と僕も思います。
しかし、セイヤー博士は、激しい情熱で、一人の重症患者に、新薬による治療を受けさせることを承諾させます。
その患者が、レナード・ロウでした。
母親は、三十年の間、この息子を看病し続けて来ました。
レナードが発症したのが、十一歳の時。学校を止め、家で一人読書する生活を送っていましたが、症状は徐々に進行し、ついに、二十歳の時に、眠りに着いたように、すべての身体の動きが止まってしまったのです。
母親は、この治療を行うことに合意します。藁にもすがる思いの賭けと言ってもいいでしょう。
こうして、薬を徐々に増やしながら、治療が始まるのですが…。
セイヤー医師に、ロビン・ウィリアムズ。患者のレナードに、ロバート・デ・ニーロが扮しています。
ハリウッドを代表する演技派二人の共演ですが、ロビン・ウィリアムズが、デ・ニーロを立てるかのように、抑えた演技をしているために、大物俳優の共演にありがちな演技競争になっていません。
僕は、今回、改めて観るまで、医師役が、ロビン・ウィリアムズだとは思っていなかったほどです。無論、それだけ、ロバート・デ・ニーロの演技が際だっていたとも言えるのですが。
映画の結末については、やはり、これから観る人のために、はっきりとは書かないことにしましょう。
しかし、レナードが、新薬の効果で、長い目覚めから覚めるとだけは言っておきましょう。
彼だけでなく、続けて治療を受けた他の患者たちもまた目覚めるのです。
結末は、ダニエル・キイスの小説「アルジャーノンに花束を」によく似ていると言ったら、想像が付くかも知れませんね。
実は、僕は、「アルジャーノンに花束を」は、この実際の出来事をヒントに書かれたのかも？と思って調べたのです。ところが、この小説は、1959年に発表されていました。
つまり、この出来事の十年前に書かれていた訳で、アイディアのヒントになるはずがないのです。小説には、このように、現実を先取りするようなことがあり、何とも不思議な気がしますね。
閑話休題。
いかにも、随筆風でしょう。ちょっと書いてみたかっただけです。
いつものことですが、僕がこの映画を最初に観た正確な期日は思い出せません。
ただ、こちらに帰ってきてから観たのは確かで、CSではなく、テレビの映画劇場で観た気がします。
長い眠りから目覚めたレナードは、やがて、自分の置かれている状況に気付きます。
鏡に映った顔は、記憶にある、二十歳の自分ではなく、五十歳の自分です。
眠っている間に、三十年の月日が流れていた事実に、自分の人生の三十年という時間が失われてしまったことに愕然とします。
そして、彼が母親の庇護から離れ、病院に父親の見舞いに来ていた若い女性に恋心を抱くところから、彼は、変わって行きます。
彼は、失われた自分の人生を取り戻そうと必死になります。
他の人と同じように、自由に外を歩きたい。
ただ、それだけの彼の願いも、まだ、薬の効果や副作用が分からないため危険が大きいという理由で、病院から許されません。
彼は苛立ちます。
そして、怖れていたことが起きます。
彼の身体にけいれんが戻り始め、薬はしだいに効きにくくなって行きます。
苛立ちを募らせる彼と、彼をなだめようとするセイヤー医師。
レナードが、セイヤー医師に投げかけた言葉が、僕の胸を打ちました。
「僕は、三十年間、病気と闘ってきた。なのに、病気でもない、あんたは、その間、うじうじしていただけだ」
レナードが、本来、社交的で、人生を積極的に楽しもうとする性格なのに対し、セイヤーは、自分を世間とは合わない偏屈な人間だと思い込んでいるのです。自分を認め尊敬してくれている、看護師の気持ちにも答えることが出来ないほど、女性に対しても臆病です。
一方、レナードは、病気の悪化を怖れつつも、女性に恋をしようとします。
人生を楽しもうとするレナードだからこそ、失われた時間を悲しみながらも、今を大切に生きようと思うのです。
自分に恋をする時間が残されていないことを知った彼は、好きな女性に、自ら、別れを告げます。
別れの前の、とても切ない、ダンスシーンがあって、以前、観たとき、全く記憶に残らなかったのが不思議です。
たぶん、レナードの失われた時間の悲しみが、僕自身の失われた時間の悲しみと重なって、僕には、後半部分をよく観る余裕がなかったのでしょう。
しだいに、けいれんが増し、目覚めている時間が少なくなって行くレナード。
ロバート・デ・ニーロの演技は、鳥肌が立つほどリアルです。
僕は、入院していたとき、実際に、身体のけいれんを伴う病気の患者さんを見たことがあるので、その演技の凄さか良く分かりました。
人が人生を生きる、とは、どういう事か？
今回、改めて、この映画を観て考えました。
僕は、今でも、自分がこの病気でなかったら、いや、病気でもいいから、せめて、もっと若い頃、せめて、二十代に病気であることを知っていたら、そう思います。
もっと、覚悟を決めて、自分の人生を切り開き、充実した生活を送れたのではないか？そう思い、悔しい気がします。
しかし、過ぎ去った時間は帰ってこないのです。
この事実を素直に受け止めた時、初めて、少しだけ、前向きな気持ち湧いてきます。
自分の人生が病気に縛られていたからこそ、今の自分のどこかに、何か価値あるものが残ったのではないか？決して、マイナスだけではないのだ。
何より、僕には、苦しくても、半生を生きたという実感がある。
楽しいことは少なかったけれど、レナードのように、眠っていた訳じゃない。
これからの人生をどう生きるか？
時間の長さによって決まるのではなく、年齢によって決まるのでもない、真に価値のある人生。
それを探し求めることが、今の僕のやるべきことなのだと改めて思うのです。
今回は、心の病を抱える人間にとって、職業に就き働いて行く、と言うことについて書こうと思います。
まず、最初に断っておきたいのは、僕は、精神障害年金の二級を受給していて、現在は、職業に就いていません。
ですから、「働く」と言う行為について語る資格は僕にはないのかな？正直、そうも思います。
しかし、仕事に就いていた時期もあり、また、将来、僕なりの「働く」と言う夢もあります。それらすべてを含めて、書いてみるのも、意味のあることと思うので、書いてみることにします。
年金は、二ヶ月に一度、13万円ほどが支給されます。一月に換算すると、約68000円。
もし、この額で、アパートを借り、一人、自炊生活を送るとしたら、家賃の安い、僕の町でも、かなり厳しいと言わざるを得ません。
都会なら、実質的に、不可能と言っていいでしょう。
家族と共に暮らしていて、住居費、食費、光熱費、すべてを親のお世話になっているからこそ、何とか、人並みの生活を送っていられるのです。
その点では、僕は、恵まれていると感謝しています。
以前と比べて症状も軽くなっていて、ゴスペルに参加でき、海外ツアーにさえ、行けた僕が、障害年金を貰っていることに関しては、いささか後ろめたい気持ちがあります。
障害年金は、「障害のため日常生活に支障をきたしていて、そのため、外に出て働いて収入を得ることが出来ない」そうした条件の人達に支給されるものです。
働くと言うことに関しては、僕の年齢、無職としてのブランク、資格、特技がないこと、喘息の持病があること、それらを考えると、難しいと言えるかも知れません。
将来を考えると、暗澹たる思いに、自ら、呆れ返ってしまうほどです。
また、強迫性障害で、年金を受け取ることは、現在の福祉行政ではかなり難しいらしく、もしかしたら、主治医の先生は、別の病名を書類に書き込んでいるかも知れません。
一度では審査が通らず、診断書を書き直したと言っていました。
僕自身は、先生が書いた診断書を見ていません。
こう書くと、障害年金の申請はいい加減なもので、主治医のさじ加減で簡単に通ると思われる方もいるかも知れませんが、そうではないのです。
もう何年も前になりますが、最初に、障害年金のことを、僕の通院している病院のソーシャルワーカーの人に相談したところ、「うん、大丈夫じゃないかな」と言われたので、主治医の先生に話したところ、「いや、無理だよ」とあっさり言われ、一度は諦めていたのです。
その後、大分経ってから、障害年金の支給を受けることが、法律の改正で、もうすぐとても難しくなるらしい、と噂を聞いて、駄目で元々と再び、先生に話してみたのです。
すると、「じゃあ、考えてみますか」と、思いがけない返事が返ってきました。
その時は、両親が同席していたと思います。そのことで、先生は、僕が、それなりの覚悟を持って相談に来たと思ってくれたのかも知れません。
障害年金を申請するためには、まず、最初に、精神科にかかった日から現在までの状況を、事細かく、自分で書類を書かなくてはなりません。
最初に精神科にお世話になったのは、中三の時、不登校で家庭内暴力を振るって、連れて行かれた、市内にある個人病院でした。
そんな昔のカルテが残っているはずはないと思いつつも、訪れた、その病院には、驚くべきことに僕のカルテが残っていました。
その病院には、父が行ってくれました。
僕も、そのコピーを見せて貰ったのですが、あまりに、あっさりと書かれていて拍子抜けしました。
当時の僕としては、大変な嵐のような出来事で、電気ショック療法をされそうになったりと、後々まで、精神科に対して不信感を抱くことになった診療だったのですが、そのカルテには、僕が学校に行こうとしないこととカウンセリングをしたと言う事実だけが書いてありました。
まあ、確かに、その通りで、逃げるようにして病院から帰ってきて、薬を処方して貰った記憶もないのですから、カルテには、書くこともなかったのでしょう。
辛かったのは、その時々の心の状態を書類に書き込むことでした。書くほどに、その時の心の状態が甦ってきて気分が重くなりました。
父が、それを読んで、「おまえも辛かったんだなあ…」と、しみじみと呟いたのが意外でした。
このサイトの文章、特に、「霧が晴れるとき」「エッセイ」のコーナーの文章を、何とか客観的にこれまで書けてきたのは、一度、そのように、「予行演習」をやったおかげなのです。
そうして苦労して書いた書類を先生に渡し、先生が、一度書いた診断書を書き直して、申請がやっと通り、僕は、障害年金を受けることになったのです。
子供の頃から、将来、医者になるよう、半ば、洗脳めいた育てられ方をしたことは、すでに、書きました。
案外、そうした無理な洗脳がなかったら、医者になっていたかも知れないな、と思うことがあります。
何より、僕自身、喘息で苦しみ、病の辛さを嫌と言うほど味わっていたので、「エリート」としての医師ではなく、「病気の苦しみを救ってあげる人」としての医師なら、職業として魅力はあります。無論、理系の勉強が駄目だった僕なので、医学部に受かったかどうかは分かりませんが。
他に、教師、デザイナー、編集者、学者、色々、選択肢はあったような気がします。
しかし、本当のところ、僕は、不登校になった中学時代から、職業に就くことはないのではないか？少なくとも、組織の一員として働くことは無理なのではないか？そんな思いがありました。予感と言った方が正確かも知れません。
対人関係は、どんな職業、職場であろうと必ずついて回ります。
当時は、OCDのためとは知りませんでしたが、人とはどこか違う人間と自分を自覚していて、対人関係に全く自信がなかった僕は、組織の中で何十年も働いて行く、そのことが、とても怖ろしい、得体の知れないことに思えたのです。
ものを造る仕事、取り分け、小説家になりたい。
漠然とそう考えるようになったのは、高校時代です。
それには、やはり、中三の不登校時代、本を読み、救われたことが関係していると思われます。
高校時代、親元を離れ、下宿していた僕は、小説だけでなく、色んな雑誌を読んでいました。大人の雑誌、「官能小説」「SM雑誌」なども、読んでいました。
江戸川乱歩なども好きだったので、所謂、「エログロ」には抵抗がありませんでした。今考えると、高校生が、どうして、そんな雑誌を買えたか不思議なのですが、おおらかな時代だったのでしょう。
学生服を着た高校生が、「SMセレクト」などを堂々とレジに持って行ったのですから、今の時代、挙動不審の中年男が、ロリコン誌を買う以上の怪しさですね。
宇能鴻一郎なども、お気に入りで、「平凡パンチ」や「プレイボーイ」などは、青臭く感じられました。生意気な高校生ですね。
当時は、まだ、文学と言うものの力がそれなりにあった時代でした。
五木寛之、野坂昭如、遠藤周作、北杜夫など、文学界のスターも、脂が乗り切っていて健在でした。
そうした訳で、芸能界に憧れる少女のような漠然とした気持ちを抱いたまま、あまり深く考えず、大学の文学部へと進みました。
ここから先は、僕の自堕落な履歴書を書いても仕方ないわけで、孤独で無気力な学生生活を送り、大学を留年したあげく中退し、何も身に付けることなく社会に出たとだけ言っておきましょう。
今にして思えば恥ずかしいばかりのだらしなさです。学費も無駄に浪費し、親にも、本当に申し訳ないと思っています。
たとえ、心の問題で悩んでいたとしても、同じように悩んでいて、尚かつ、必死に学んだ人達もいたでしょうに。
僕には、やはり、大きな甘えがあったのだと今では思います。
大学を中退して、社会に出た僕には、現在、良く聞く言葉、「就活」などは関係ありませんでした。
新聞の求人欄で募集している仕事に応募して働きました。
営業だったり、商品管理だったり。しかし、人間関係に自信のない僕は、職場に馴染めず、
また、自分の孤独な生活にやけになったりして、長続きしませんでした。
社会に出てからも、実家からは、生活できる程度の仕送りは受けていたので、路頭に迷うことはありませんでした。
太宰やゴッホのように、僕は、いつまで経っても経済的に親離れできない人間でした。
しかし、彼らと違い、創作に打ち込み、作品を作ることはしませんでした。
心の中で、何かを作りたい、取り分け、小説を書きたいという気持ちはあり、ノートに、青臭いファンタジー小説を綴ったりしたこともありましたが、長続きしませんでした。
僕が組織の中で働くと言うことをはっきりと諦めたのは、こちらに帰ってきて、母の友人の紹介で、損害保険会社に勤めたときです。
それまで、何度、面接を受けても通らず、僕は、結局、苦手な営業職に就くことになったのです。
真面目に働けば成績は悪くても、社員として働かせてくれるという、母の友人の言葉を疑いもせず、入社したのですが、実際は、一年間の試用期間中に、一定の成績を上げなければ、首を切られる仕組みでした。
そのハードルが高いと言うことと、そうした嘘に近いことを言ってまで、使い捨ての社員を採ろうという考えが気に食わず、半年足らずで辞めました。
それ以来、僕は、働いていません。
僕は、原点に返り、小説を書こうと思ったのです。遅ればせながらとは言え、それは、自分に一番相応しい仕事に思えました。
道が厳しく、運にも左右され、見通しの立ちにくい仕事でも、僕は、ものを造ると言うことが好きだったので、物語の言わば、「骨組み」とも言える、文字を綴って作り上げる小説に真剣に取り組もうと思いました。
しかし、皮肉にも、と言うか、あるいは当然にもと言うべきか、そう決心した途端、僕のOCD地獄は、始まったのです。
ワープロから、パソコン、万年筆へと、小説を書く道具のすべてについての異常なこだわり、強迫観念が、僕に襲いかかり始めました。
そして、精神科に入院する羽目になり、一年間を病院で過ごして退院し、今に至ります。
嵐のような苦しい日々で、形として残せたものは、ごく短い短編小説、ショートショートと呼ばれるものです。入院中に書いた一編が商業誌に掲載され、その後、文庫本の中に収録されました。
その原稿料、四万円が、僕が自らの仕事と信じる、言ってみれば、天職で、稼いだお金です。
このことは、小さな自信になりました。それは、自分に才能がある、と言うことではなく、自分がすべての運に見放された存在ではない、と証明できたからです。
僕のケースは、精神障害者が働くということに関しては、あまり役に立たないかも知れません。
あまりに、特殊で、運任せで、また、恵まれた立場だからです。
「おきらく」な僕だからこそ、このような、「背水の陣」を敷くことが出来るのでしょう。
逆に言えば、ここまで追い込まれなければ、僕は、働くと言うことについて真剣に考えることがない人間なのかも知れません。
働くこと＝生きている意味であり、経済的なことは、その次に来るのです。それもまた、僕が家庭を持っていないからでしょう。
もし、結婚し、家庭を持つことが出来ていたら、意に染まぬ仕事でもきっと汗水垂らして働いていたと思います。こういうと、両親は、信じられないと大笑いしますが。
少年の頃から、友人はおろか、恋愛も結婚も無縁だと予感していた僕にとって、自分が生活するために働くと言うことは、お金を稼ぐことよりも、自分が社会に生きている意味、この世に生まれてきた意味を問うことだったのです。
今、僕は、OCDと折り合いを付けながら、細々とゆっくりとしたペースで、小説を書いています。
小説を書くことが天職と思えるからこそ、OCDは、この点を鋭く攻めてきます。
僕にとって、創作とは、OCDとの付き合い方を学ぶ果てしない旅でもあるのです。
不況の嵐が吹き荒れる中、新卒の健常者ですら、就職が厳しい社会で、心に病を抱えて働くこと、就職することは、大変厳しい状況と言っていいでしょう。
僕は、その過酷なレースから、抜けてしまった人間なので、アドバイスする資格はありません。
ただ、僕のような生き方をしている人間もいると言うこと、常識外れと言われても、夢をいつまでも見続けている人間、脳天気と言われても、開き直って生きている人間がいることを、頭の片隅に置いていてくれたらと思います。
そのことで、働くことで悩んでいる、心に病を抱える人達の気が楽になったら。
ただ、それだけを願うものです。
田村浩二さんが書かれた、この本の名前を見たことのある、OCD患者の方は多いのではないかと思います。
OCD患者である著者が、それを克服した体験から得た、貴重な経験をまとめたこの本のことは、ずっと前から気になっていました。
しかし、正直なところ、買うのに少し、ためらいがありました。
一つには、タイトルの中にある、「克服」「鉄則」と言う言葉のイメージから、僕には合わないのではないかと言う懸念です。
もう一つは、僕自身、「OCDおきらく共和国」と言うサイトを始め、その中で、自身の体験から得た、OCDとの付き合い方を書き始めたので、僕が書くことが、偶然、田村浩二さんが書かれたことと重なってしまうのではないか？と言う心配があったからです。
いかに、僕自身の体験から得たOCDの対処法とは言え、先に、他の人に同じ内容を書かれていたら書くわけには行きません。
ミステリ小説で、トリックを独自に思い付いても、過去に発表されていた小説に使われていたなら、書けないようなものです。
これは、文章を書く人間のルールと言っていいと思います。
しかし、結局、買いました。
僕自身、僕と同じように、OCDと長く付き合い、それを乗り越えてきた人の足跡を知りたいと言う思いと、実際に、僕のOCDとの付き合い方と共通するものなら、僕がサイトで書かずに、この本を読むことをみんなに勧めればいいのではないか、そう考えたからです。
実際に読んでみて、辿り着こうとする目的地は同じでも、その途中の過程が、僕とは、かなり違うという印象を持ちました。
また、一方で、同じ、OCD患者として、「そう、そう、その感じなんだよ。それが感じられたら、改善するんだよなあ」と共感する部分も多かったです。
実際に、OCDを抱えた人でなければ分からない感覚が描かれていて、うなずきながら読んでしまいました。
この本は、ぜひ、OCDに苦しんでいる人に、読んで貰いたい、お薦めの本であることは間違いないのですが、また、ここで、問題があります。
僕が、この本を読んでからだいぶ月日が経っているのに、今まで、サイトで取り上げなかったのも、この理由があるからです。
この本は、35の、短いOCDへの対処法からなっているので、内容をここに詳しく記すことは出来ないのです。
出版物として売られているのですから、著作権に触れることになるし、また、著者が、辛い体験の中から掴み取った貴重な、OCDへの対処法のエッセンスを紹介することは、やはり、ルール違反だと僕は思います。
ですから、難しいことですが、内容に触れることは最低限にとどめて、僕の感じたことを書いて行くつもりです。
もどかしい感じを抱く方もおられると思いますが、そこの所は理解して欲しいと思います。
最初に、僕自身のOCDへの考え方と共通する項目を三つ挙げてみます。
完璧を求めない。八十点ほどで良しとする。
第三者の視点で、自分の行動を眺めてみる。
強迫観念は、強く囚われている時には永久に続くかに見えるが、時間が経つと、しだいに薄れて行く。
この三点は、全く僕も同意見です。僕も、このような考えを基本にして、OCDと付き合い、症状を改善してきました。
次に、僕と異なった対処法にも触れてみます。
確認は一回だけ、手洗いも一度したら、それ以上はしてはいけない。
強迫観念について、振り返り、あれこれ考えてはいけない。
これと似たような対処法が、この本にはいくつか書かれています。
この辺りは、僕と考え方が違うでしょうか。
僕は、回数にこだわらず、初めのうちは、確かめたいだけ確認する方が気が楽だと考えています。どれだけ、確認すると言っても、人間には忍耐の限度があり、いずれ、「まあ、こんなに確認したのだから、どこかで、チェックしているはずだから、この程度でいいんじゃないか」そう思えるときが来ます。そうすると、不思議と回数も減って行き、一度か二度、その時々の心の状態によって、適度な確認が出来るようになります。
また、僕は、なぜ、こんな理屈に合わない強迫観念が存在するのだろう？その理屈に合わないことを証明できれば、強迫観念も、薄れて行くのではないか？そう考え、自分を納得させるために、色々と試行錯誤します。
この辺りが、著者と僕の考え方の違いでしょう。
それは、行動療法と認知療法の違いと言うことが出来るかも知れません。
この本は、行動療法、その中の、暴露療法、暴露反応妨害法とも言いますが、そうした理論に基づいているものと思われます。
基本的に、この本は、この行動療法の理論を元に、著者が体験の中から得たOCDとの付き合い方の勘所、コツを書いたものと言えます。
ですから、重度の患者さんには、「そんなことが出来るくらいなら、苦労しないよ」そう思えるかも知れません。
しかし、著者の田村浩二さんも書いていますが、これは、ハンドブックとして利用するべきもので、鉄則が守れなかったから、「ああ、やっぱり駄目だ。この病気は治らないんだ」そう思ってはいけないのです。
やれる所から、チャレンジし、出来なかったら、いつか出来るようになれればいいな、そのくらいの気持ちで読んで欲しいと思います。
そう考えると、この本は、中度から軽度に症状が改善されかけている患者さんが読むのに適している、僕にはそう思えます。
重度のOCDの強迫観念の中で、自分を見失っている患者さんは、取り敢えず、薬物療法で、症状を改善するのが先決かも知れません。
この本をすべて通して読んでみると、著者の田村浩二さんは、行動療法、僕は、認知療法を元にして、OCDに向き合い、乗り越えてきたのだと言うことが分かります。
しかし、最近の考え方が、この二つの療法を結びつけた、認知行動療法が主流になっているように、一見、行動療法のように見えても、その裏には、認知療法の考え方が支えになっていることが分かります。
田村さん自身、無意識なのかも知れませんが、認知療法の考え方に触れている部分もあります。
内容にあまり触れずに、この本の良さを説明するのは難しく、このエッセイを読んでくださった方には、隔靴掻痒の感があると思いますが、ぜひ、一度、手にとって読んで欲しい本であることは確かです。
著者がこの本を出版したのが、2001年。
僕が入院し、OCDの本格的治療を開始したのが、2000年。
これは、やはり、この頃から、日本でも、OCDの研究、治療法が本格的に始められるようになったからでしょうか。
OCDに対する治療法が、まだまだ不足ながら、いくらかは進歩した現在、再び、著者の考えを聞いてみたい、そんな気がします。
僕が、「OCDおきらく共和国」を起ち上げたとき、このサイトが、いつかこんな風になれたらなあ、そんな理想がありました。
それは、日本中の、OCDを始めとした、心の病を抱えた人達の、ネット上の憩いの場であると同時に、実際に会って話が出来る「場」を持つことが出来たらいいなあ、と言うことです。
集まれるのは、北海道、それも、札幌市近辺に住んでいる人達が中心になるでしょうが。
「オフ会」より、更に一歩進んだ、月二回程度、定期的に会って話が出来る、そんな場所をいつか持ちたい、僕は、今もそう考えています。
僕が、ネット上の、「メンタルサイト」に関わりを持つようになったのは、最初の入院と二度目の入院の間の頃だったと記憶しています。
初めて、「書き込み」をしたのも、その頃でした。
ある、全国的なOCDに関するサイトを見付け、僕も、初めて書き込みを経験しました。
当時、OCDの患者さんが主宰しているサイトは、僕が知る限り、そのサイトだけだったのです。
やはり、OCDは、「うつ」などと比べると、珍しい、精神障害だったのでしょう。現在でも、医療機関が運営している強迫性障害についてのHPは多いですが、患者が運営しているHPは、非常に少ないです。ブログなら、結構、あるのですが。
僕が、「OCDおきらく共和国」を建国したのも、そうした理由によるものです。
もしも、患者が運営し、OCDに悩む人々が気軽に参加でき、「オフ会」も頻繁にあるサイトが、北海道にあったなら、僕は、自ら、「OCDおきらく共和国」を起ち上げることはなかったでしょう。
僕が書き込みをしていた、そのサイトは、内地に住んでいる、若い女性が運営していて、「オフ会」も東京で行われていたように記憶しています。さすがに、北海道からは参加できません。
それでも、自分と同じように悩み苦しんでいる人が、この社会にたくさんいると言う事実は、僕の大きな励ましになりました。
そのサイトは、今は、長い間、更新が途絶えていますが、時折、のぞくと、僕の書き込みが残っていたりします。
文章のニュアンスなど、今と同じで、何だか、タイムスリップしたような不思議な気持ちにさせられます。
しばらくして、僕は、OCD専門のサイトではないけれど、札幌に住んでいる人が運営している、メンタルサイトを見付けました。
管理人は、二十代の女性で、主に、抱えている心の病は、「アダルトチルドレン」とのことでした。
「オフ会」もやっていると言うことで興味を持ちました。しかし、掲示板を読んでいるだけで、書き込みもしないうちに、僕は症状の悪化のため、二度目の入院をすることになってしまったのです。
七ヶ月後、退院してから、ネットをのぞいてみると、その札幌のサイトは、休止することなく活発に活動していました。
僕は、少しずつ書き込みを始めました。そして、そのサイトに親しみを覚えるようになりました。
初めて、オフ会に参加したのは、確か、僕が退院したその年、2001年の六月頃だったと思います。
札幌の繁華街、ススキノにあるレジャービルの前で待ち合わせをし、ボウリングを楽しんでから飲み会をしようと言うのが、その日のオフ会の内容でした。
待ち合わせの場所となったビルの前は、他にも待ち合わせの人が多くいて、それらしい何人かのグループを見ても、もし違っていたらと思うと声をかけられず、通り過ぎてはまた引き返してと、悶々として十分程を過ごしました。何か、目印のようなものを持っているわけではなく、初参加の僕にとっては、誰が、その会のメンバーか分からなかったのです。
ようやく、思い切って、地味な感じのグループに声をかけたら、彼らがオフ会のメンバーでした。
一次会のボウリングは、あっという間に終わりました。その日集まったメンバーは、十人と少しだったように記憶しています。
すでに顔を合わせている仲間たちは親しそうに話ながら、ボウリングを楽しんでいるのですが、初参加の僕は、ただ、黙々と下手なプレイを披露しました。
二次会の飲み会になって、一人一人簡単な自己紹介をしてから、ようやく、僕も話が出来るようになりました。と言っても、何を話したのか、ほとんど覚えていません。
自分がどんな病気か、そのことは話さなかった気がします。それどころか、それから、後、かなり長く、この会のメンバーとは付き合うことになったのですが、僕の病気、OCDについて話した記憶がないのです。
この後に語ることになりますが、このサイトの主要メンバーのほとんどが、札幌市内の、ある、「自助グループ」に参加していました。
そこに来ていた、障害者施設を運営している方に、OCDについて詳しく書かれた本、「不安でたまらない人たちへ」を貸したので、何回かは、話したのでしょう。
また、「引きこもりに関するシンポジウム」にパネラーとして参加して体験を話したので、OCDについて触れなかった訳がありません。
OCDについて話した、はっきりとした記憶は、引きこもりの子供を持つ親の集まりに出た時のことです。
七人のお母さんたちが来ていたのですが、そのうち、四人が、子供にOCDの症状があると言っていたのが強く印象に残っています。
オフ会の仲間や自助グループのメンバーには、OCDについて、説明したり、質問を受けたりした記憶はありません。
結局、OCDを抱えているのは、僕だけだったので、みんな興味がなかったのだと思います。また、OCD自体、あまり知られていなく、その感覚や辛さが共感しにくいものだったのも理由の一つだったでしょう。
僕以外のメンバーは、ほとんどが、「うつ病」で、「アダルトチルドレン」でもある人が多かったです。後、「ボーダー」と呼ばれる人もわずかにいました。
しかし、集会で、自らの病気のこと、症状について詳しく語ったりすることは、ほとんどありませんでした。
皆、お互いに、暗黙のうちに、病気の辛さを分かっていて、敢えて、その話題には触れず、ごく普通のサークルのように飲んだり食べたりしていました。
時折、明らかに、状態の悪い人がいるときもありましたが、そんな時は、「あまり無理しちゃ駄目だよ」などと、その人に声を掛けたりしていました。
オフ会に幾度か参加するうちに、ネット上のサイトとは別な、実際に会って話をする場所があることを僕は知りました。
話によると、ネット上のサイトを読んだ、北海道の地方新聞社の文化部に勤めている男性が、そのサイトの話題を新聞で取り上げたのだそうです。
その男性も、以前、引きこもりだったのですが、それを乗り越えて、新聞社で働くようになった経験から、月二回、土曜日の夜、廃業して現在営業していない、イタリアンレストランを利用して、引きこもりの人や心の病を抱えた人たちのための「語り合いの場」を提供していたのです。
サイトのメンバーは、札幌市に住んでいる人たちが中心だったので、オフ会に出られる人たちの多くが、この「自助グループ」に参加していました。
僕も、初めて、オフ会に参加した年の秋には、その「自助グループ」に、僕の町から、列車に乗って参加するようになりました。
その自助グループの名前を仮に、「Aの会」としましょう。
「Aの会」は、札幌駅の北口、少し寂しいビル街にありました。駅から徒歩で、十五分くらいの場所にありました。
毎月、二回、第一と第三の土曜日、午後七時頃から真夜中まで活動していました。
僕は、列車の関係で、終電に間に合うよう、十一時を過ぎた頃に帰ったのですが、札幌市内に住んでいて、家が近かったり、車で来ている人たちは、真夜中まで語り合っていたようです。
心の病を抱えた人たちの自助グループと言うと、世間の多くの人たちは、細々と小さな声で語り合い、互いに、共感し慰め合う感じの、静かで落ち着いた集まりを想像するかも知れませんね。
しかし、少なくとも、「Aの会」は、そうしたイメージとは、かなり違ったものでした。
お酒を飲むのも自由と言うこともあり、また、公の、社会福祉関連の仕事をしている人が取り仕切っていなかったので、どことなく、「コンパ」のような雰囲気でした。
その会は、常連のメンバーがほとんどだったので、そうした気安さもあったのでしょう。それだけに、初めて参加した人、対人恐怖の強い人は、溶け込むのに苦労していた様子でした。
僕も、やはり、数ヶ月は、あまり喋ることが出来ませんでした。無論、僕が、みんなよりかなり年上だと言うこともあったからでしょう。参加していたのは、二十代、三十代の人がほとんどでした。
そこには、引きこもりの子供を持つ親の方も訪ねてきていて、僕は、そうした方と話すことも多かったです。年齢的にも、そちらの方に近かったですし、ね。
僕が意外に思ったのは、そうした、引きこもりの子供を持つ親御さんに対して、メンバーのほとんどが、冷めていると言うか、冷淡だったことです。
「あまり、子供に構わずに、放って置いたらいいですよ」何か、アドバイスを貰おうと、藁にもすがる思いで来ている人に対して、ちょっと冷たいんじゃないか？僕は、そう思いました。
今、考えると、「アダルトチルドレン」の人たちは、皆、親との関係に問題や悩みを抱えている、極端に言うと、憎しみを感じている人たちだったので、そんな態度として表れたのかも知れません。
ここで、少し、「アダルトチルドレン」について、説明します。
最近では、あまり、この言葉は、聞かなくなりました。
これは、病名ではありません。一部の精神科医、時代やマスコミが、作り出した、「症候群」のように、捉えている本もあります。
このため、現在では、誤解されやすい、「アダルトチルドレン」言う呼び方はされず、「アダルトサバイバー」と呼ばれているようです。めったに聞きませんが。
元々は、アルコール依存症患者の子供たちを指す言葉で、そうした子供時代を経験した人の中に、自分に注目して欲しい、そのために、「よい子」を演じる、他者に依存しやすい、本当の自分との落差のために精神が不安定になりやすい、等、そうした気質を持つ人間が多かったことから、「アダルトチルドレン」と言う、言葉が生まれました。
しかし、本人が、鬱的な気質を持っていたり、思春期に発症したりすれば、親との仲が上手く行くはずはありません。また、アルコール依存症になる親は、やはり、精神疾患に罹りやすい資質を持っているはずですから、遺伝的な問題もあるような気がします。
現在では、アルコール依存症に限らず、家庭として機能を果たしていない環境で、虐待を始め、何らかの圧力を受けて育った人たちも含めて、そう呼んでいるようです。
精神疾患に限らず、思春期の悩みそのそのものが、親との対立を含んでいるものが多いことから、ことさら、そうした症候群として、名前を付ける必要があるのだろうか？僕は、そんな気がしてなりません。
子供時代の体験が苛烈なもので、それが、現在まで尾を引いていて、精神疾患を更に辛いものにしていることはあると思いますが。
話を元に戻しましょう。
自助グループ「Aの会」は、二つ、あった、そんな気がします。
表の会と裏の会。
こう書くと、何だか、怖ろしげに聞こえますが、つまりは、実際に、会って、顔を見せ話し合う会と、もう一つ、「メッセンジャー」を使って、チャットで話し合う、ネット上の会、この二つがあったと言うことです。
当時、まだ、ネット初心者だった僕は、「Windows Messenger」の存在を知りませんでした。タッチタイピングの出来ない僕は、キーボードを打つのが遅く、「チャット」の存在は知っていましたが、やってみたことはありませんでした。ちなみに、今も、僕は、タッチタイピングが出来ません。
このチャットの元締めのような存在が「メッセンジャー」―みんなは、「メッセ」と読んでいましたが―と言う、リアルタイムで、ネット上でお喋り出来るシステムです。
会に参加してみると、前回には、話されていなかったことが、みんな周知の事実のように語られていて、「あれ、みんなどうたんだろう？札幌の人たちだから、どこかで会って話し合ったのかな？」僕は、そう感じることが結構ありました。
カラオケに行くことだったり、誰かの家で、鍋を囲む集まりだったり。なんだか、自分だけが、仲間はずれにされたようで、僻みっぽい僕は、少し寂しかったです。
今考えれば、僕が「メッセ」をやっていなかったのと札幌に住んでいないと言うことで、参加できないと考えただけかも知れません。
ただ、こうした「メッセ」を通した会話が、一種の「派閥」のようなものを生み出していったのは事実です。
やはり、どんな集まりでも、積極性のある「仕切り屋」がいるもので、それは、いいのですが、どうしても、自分の波長のあった者だけを集めることになって行きます。
そうした「派閥」がいくつか出来ると、やはり、人間の性で、反目も生まれてきてしまうものです。
特に、特定の女性を中心に誘ってカラオケに行ったり、などとなると、男同士、嫌でも、険悪なムードになります。ここら辺りは、「合コン」の心理と全く同じです。
会が分裂しそうになったり、お酒の勢いもあって、激しい罵り合いになったりと、結構、「修羅場」がありました。
これが、会社などの集まりだと、普段の仕事に差し支えるので、ある程度の所で、お互い、矛を収めることになるのですが、そうしたしがらみとは無縁なので、行き着くところまで行ってしまうことも多かったのです。
そして、心の病を持っていると言うことは、状態の良いとき、悪いときで、大きく感情も違い、また、良い意味でも悪い意味でも、ある種のピュアさを持っているので、抑制が効かないのです。
ですから、札幌市の福祉課が運営している自助グループでは、そのような、「修羅場」はありませんでした。
やはり、皆、「よそ行きの顔」で参加していた証拠でしょう。
人が集まり、語り合い、仲間になる。それは、素晴らしいことです。しかし、それと同時に、色んな摩擦、反目、男女の揉め事、それらが伴うのも、また、仕方ないことです。
そうした、生のぶつかり合いや傷付くことを怖れていては、社会で生きて行くことは出来ません。
今でも、そうした、生身の人間が触れ合うことの恐怖感を、僕は感じつつ、ゴスペルを始め、色んな場所に参加しています。
一方でまた、顔が見えないからこその、ネットでの別の恐怖感も、僕は感じています。
芸能人のブログが中傷されたり、学校裏サイトでのいじめがあったりと、生身の人間の触れ合いを避けても、やはり、人を傷付ける悪意は存在します。
しかし、結局、この世の中で、心を通じ合うことのできる存在は人間同士だけなのです。
まあ、僕とチビのような例外はありますが…。
人に対して臆病な僕だからこそ、いつの日か、誰もが、適度な距離感を保ちつつ、楽しく語り合える場を作れるのではないか、そんな希望を、僕は抱いています。
以前から気になっていた映画「クワイエットルームにようこそ」を、CS放送で観たので、今日は、この映画を観て僕が考えたことを書こうと思います。
この映画は、睡眠薬の過剰摂取のため意識不明となり、目が覚めたら、精神科の閉鎖病棟に入れられていた、女性ライターの、退院までの二週間の物語です。
脚本、監督は、松尾スズキ。
主演は、内田有紀。
共演は、宮藤官九郎、蒼井優、妻夫木聡、大竹しのぶ、と言った面々。
この映画、なぜか、音声が小さく、テレビの音量をかなり上げても、台詞が聞き取りにくい部分が多かったです。
ネット上の映画批評でも、同じような感想が書かれてあったので、うちのテレビの調子が悪かったせいではないようです。意図的なものなのか、単なる音声さんのミスなのか、そこは謎ですが、かなりストレスが溜まったことは事実です。
劇団「大人計画」を主宰している、松尾スズキ監督らしく、全編に、脱力するような、こそばゆいような、時には、はしゃぎすぎの感のある、ギャグが散りばめられています。
しかし、後半の、畳みかけるようなシリアスな展開で、グッと引き込まれました。
僕は、映画評論家ではなく、また、さほどの映画マニアでもないので、映画作りのテクニックのことには詳しくないのですが、編集が上手いなあ、と感心しました。
何気なく挿入された、短いシーンが、後で、大きな意味を持って、観客に迫ってくるのです。
こうした点は、松尾スズキ監督が、舞台の演出家であると言うことと大きく関係しているに違いありません。
限られた数の場面の中で、いかに、効率的に、観客にメッセージを伝えるか？その、舞台のノウハウが、映画を撮り終えてからの編集作業に活かされていると思いました。
編集次第で、いかに、映画が良くも悪くもなるかは、以前、北野武監督も語っていました。何を捨てて、何を残すか？どことどこを繋ぎ合わせるか？
しかし、僕が語りたいのは、映画の技術のことではないので、この話はこの辺にします。
まずは、この映画の粗筋を。
雑誌のライターである、主人公、佐倉明日香は、締め切りに追われる毎日。
ある日、八百字の原稿が書けず、ノイローゼ気味でいたところ、自分を雑誌社に紹介してくれた恩人であり、恋人である放送作家と喧嘩になり、気分が高揚して自棄になり、お酒で睡眠薬を大量に飲んでしまいます。睡眠薬と縁を切ろうと、薬を飲まずに取っておいたのが徒になったのです。
昏睡状態でいるところを放送作家が発見し、救急車で内科へ搬送され、胃洗浄を経て、精神科へと送られます。
二日間眠り続けて、目が覚めると、そこは、「クワイエットルーム」と呼ばれる、保護室。身体を拘束され、点滴を受けて、ベッドに横になっていたのです。
恋人の放送作家が面会にやってきて、事情を聞き、明日香は、やっと、自分がしたことを朧気に思い出します。
「クワイエットルーム」から、一般病棟へと移り、彼女の閉鎖病棟での生活が始まります。
拒食症の少女たちを始め、色んな心の病を抱えた患者たちとの交流を通して、やがて、彼女は、自分の過去、逃げ出し忘れようと封印してきた過去と向き合うことを決意します。
恋人で同居人の放送作家を、宮藤官九郎、心を通じさせる拒食症の少女、ミキを、蒼井優、新入りの患者を精神的に巻き込み追い詰めることを生き甲斐にしている古株の患者を、大竹しのぶが演じています。
大竹しのぶの怪演は当然として、蒼井優が演じる、拒食症の少女、ミキの、繊細で危うげな、それでいて、芯の強そうなキャラクターは魅力的で、本当に上手い女優さんだなと感心しました。体重も役に合わせて、相当落としたように見えました。
それから、劇団「大人計画」の女優さん、平岩紙が演じる、心優しい看護師さんも、とても素敵でした。
精神科での長い入院生活で支えになるのは、美味しい食事と優しい看護師さんであるというのは、僕が経験で得た持論です。残念ながら、その両方が満たされている病院は、滅多にないと思いますが。
明日香は、ミキを始め、幾人かの患者と親しくなります。彼女たちは、皆、拒食症でした。
ところで、僕も、入院中、親しくなった患者さんがいました。
僕が入院していた病院は、高齢者が多かったので、やはり、どうしても歳が近い患者さんと話すことが多くなります。
高齢の患者さんは、統合失調症で長年入院している人が多く、年齢の若い患者さんには、知的障害に、もうひとつ、何かの心の病を抱えている人が多くいました。
知的障害のある患者さんは、興奮すると自分を抑えられなくなったり、いじめの体験から引きこもりになって、障害者施設で集団生活が送れず、病院に来た人たちでした。
僕の病院での友人は、そうした人たちで、以前、このエッセイで書いた、H君ともう一人、これから、このエッセイのコーナーで書くつもりでいるS君の二人でした。
他にも、統合失調症やうつ病の軽い患者さんとは、良く話しました。
この映画の主人公、明日香と、最も、親しい間柄になったのは、拒食症の少女、ミキでした。
また、精神科ではお馴染みの管理主義の権化のような看護師を、女優のりょう、が演じています。明日香と彼女の対決は、なかなかの見ものです。
精神科に、しばしば、患者の人間としての尊厳を無視する看護師、医師が存在するのは悲しいことです。
これは、認知症の高齢者を扱う施設にも言えることだとは思いますが、自分が、まるで、物をまともに考えることの出来ない、人間以下の動物のように扱われるのは、非常な屈辱です。
確かに、重度の患者さんの中には、何度やさしく言い聞かせても、同じことを繰り返し、挙げ句に、介護者に暴力を振るうことがあるのは事実です。
しかし、問題は、心を病んでいると言う、その一時だけで、すべての患者を、人として欠陥品のように考えている、精神医療関係者がまだまだいると言うことなのです。
患者一人一人と真剣に向き合っていれば、おのずと対処の仕方も変わってくるはずです。
残念ながら、地方の精神病院の看護師の多くは、他の科で働いた経験が乏しく、精神科専門の看護師として、言い方を変えれば、他の、外科や内科では勤まらないため、精神科だけに長年勤めて、新しい考え方を取り入れようという気概のない保守的な人が多いのです。
こうした多くの患者たちや看護師と知り合い、ぶつかり合う中で、病院を脱出することを第一の目的としていた明日香は、やがて、背を向けて逃げていた、自分の心の中の過去と正直に向き合おうと心を変えて行きます。
ここにいる人たちも、自分と変わらない、少しだけ人より壊れやすい心を持った人間に過ぎない、自分もまた、彼女たちの仲間なのだと考えるようになるのです。
医師や看護師を、普段の生活態度や言動で、症状が良くなったと思わせ、退院に漕ぎ着けることは、病識のある理性的な患者なら、それほど難しいことではありません。
しかし、それは、真の「退院のタイミング」とは言えないと僕は考えています。
自分が心の病であることを率直に認め、入院していても治療は出来るが、退院して、自分自身で自己を管理し治療に当たった方が、より効果的で、社会復帰が早まる。
そう、自分で判断できたときこそが、真の「退院のタイミング」だと僕は思います。
退院までに、一波乱あって、明日香は退院するのですが、印象的なシーンがあります。
患者たちが、退院する彼女に、お別れの色紙を渡すのですが、最後に、拒食症の少女、ミキは、こう、色紙に書いて主人公に渡すのです。
「この色紙は、病院を出たら、一時間以内に捨てなさい。さもないと、爆発します」
明日香は、彼女の言葉通り、病院の外のゴミ箱に、その色紙を捨てます。彼女の思い出を胸に秘め、彼女の思い遣りに感謝しながら。
明日香が心の中に封印していた過去については、これから、この映画を観る人のために、書きません。
美人だったり、風俗の経験があったり、あるいは、漫画やイラストを描いたりしながら、マスコミにも、ちらほら顔を出し、個性的なキャラで、男がらみ恋愛がらみのエッセイを書いている、そんな女性たちが、業界には、たくさんいます。
主人公、佐倉明日香の設定から、そうした実在する人物が、色々と浮かびます。
室井佑月、内田春菊、中村うさぎ、倉田真由美、西原理恵子、等々。
そんな彼女たちに対して、松尾スズキは、冷めた批判的な目で見詰めていると同時に、彼女たちの孤独や自意識の過剰さに、同情的であるようにも見えます。
僕が、この映画の主人公から連想した実在の人物、それは、飯島愛でした。
気さくで開けっぴろげな姉御キャラでいながら、どこか脆く繊細な心を秘めているような彼女が、僕は、結構、好きでした。
冷めた投げやりな、お色気を見せていた、「ギルガメッシュ・ナイト」の彼女。
自伝と言っていい、「プラトニック・セックス」を書きながら、一番大事なことを語っていないような彼女。
「クワイエットルームにようこそ」の主人公、佐倉明日香は、自分を、「鬱陶しい女」と言い続けます。
「こんな鬱陶しい女、イヤでしょ？」彼女は、恋人に、そう迫り、自ら別れを告げます。
そんな主人公、佐倉明日香と飯島愛が、僕には、重なって見えてなりません。
この映画が作られたのが2007年。
飯島愛が亡くなったのが、去年、2008年の暮れ。
彼女は、死の前に、精神安定剤、睡眠薬を、常に服用していたと聞いています。
この映画に、どこか不思議な予言めいた、そんな感慨を抱くのは、果たして僕だけでしょうか。
本当に、久し振りに、エッセイを書いてみます。
この「OCDおきらく共和国」を僕が建国することになった、遠いきっかけの話です。
遠い、と言うのは、僕が行動を起こすまでに時間がかかった、その時間的距離のことで、ホームページを起ち上げた動機と言うことに関しては、とても近いのです。
僕が入院する少し前、もう少しで、2000年になると言う頃、ネット上に、一つのホームページがありました。
「強迫神経症の広場」と言うサイトです。
数年前までは、掲示板だけが波間に漂う救命ボートのように生き残っていて、僕の書き込みも読めました。チビというハンドルネームでした。
今は、サイト自体、ネット上でなくなってしまい、読むことが出来ません。
サイトが更新されなくなったのは、僕が退院して少しした頃でしょうか？
ずっと、更新が途切れたままでいたので、僕も、しだいに訪れることがなくなっていました。
その「強迫神経症の広場」を運営していたのは、Lさんという、当時、女子大生の方でした。OCDの症状が重く、大学には通えていないようでしたが。
Lは、酸っぱくて、黄色く可愛らしい形の果物を、英語で書いたときの頭文字と言えば、大方の人はお分かりになると思います。
その果物のように、みずみずしく豊かな感性が、書かれてある文章から滲み出ていて、僕は、彼女の文章を読むのが好きでした。
ちなみに、当時は、強迫性障害と強迫神経症、二つの病名が並立していた時代でした。
彼女Lさんは、不潔恐怖と確認強迫が主な症状で、その点でも、僕は、共感することが多かったです。
中でも、特に、印象に残っている彼女の言葉は、「草むらに寝転がって、のんびりと青空を眺めてみたい」と言うものでした。
そんな、おだやかで心安らかな日が来たら、どんなに素晴らしいだろう！それは、彼女の心からの願いのようでした。
OCDの僕は、彼女のその気持ちは、痛いほど分かりました。きっと、多くの同じ病の人たちが、そう思っていることでしょう。
Lさんの素晴らしいところは、辛い症状に悩む日々を的確な言葉で綴るだけでなく、未来への夢や希望も、失わず持っていて、書いていたことです。
その夢の一つ、単身で渡米すると言う夢を叶えたところで、サイトの更新は、止まっていました。
彼女がアメリカで何を感じ、体験し、帰って来て、どう変わったのか？
それは、知るよしがありません。
彼女は、今、三十代半ばのはず。どうしているのかなあ、時折、僕は思い出します。
僕が自分のサイトを立ち上げたのも、当時、強迫性障害に関するサイトが、精神科医や病院が運営している、OCDに関する解説や啓発を目的としたものがほとんどで、患者自身が日常生活を書いたり、症状の改善への苦闘、将来の夢などを語っているサイトがなかったからです。
「OCDおきらく共和国」を起ち上げるとき、僕の頭の中にあったモデルが、Lさんの「強迫神経症の広場」でした。
彼女のサイトがなかったら、僕は、一歩を踏み出す勇気が持てなかったかも知れません。
Lさん、あなたは、どうしていますか？
強迫神経症の具合はどうですか？
そして、何より今、あなたは、穏やかな気持ちで青空を眺めていますか？